「行動する」とは

人間は行動をする生き物です。そして自由を好みます。

 

歩いて移動したり、コップを口に運んだり、畑に種を蒔いて野菜を育てたり・・・色々なことが自由にできます。

 

では、私たちは自由であるかというと、そうとも言い切れません。お金がないと生活できないし、体が健康でなければ苦しいし、熱意がないと他人を動かすこともできません。

 

この不自由性によって、自由な行動の大部分が「定形化・ルーティン化」されてしまいます。行動の定形化によって、不自由性からの解放を目論むというのは、ぱっと見本末転倒のように思えますが、これらが手段と目的の関係であるとすると納得します。

 

行動は付加価値を生み、行動の定形化・ルーティン化は(これには不自由性を含みますが)技術を育み効率化を促進します。その成長によって、将来的に不自由性からの順次解放という目的が果たされます。

 

この精神的な経済活動が、上手くいけばいいのですが、問題は、上手くいかない場合です。その原因は以下の要素に分解できます。

 

①行動によって生まれる付加価値が小さい

②行動の定形化・ルーティン化によって効率化がされていない

 

この2要素のどちらか一方、又は両方を満たしている人は、精神衛生が悪くなります、簡単にいうと心が荒廃します。心の荒廃がある水準より高くなると、その人は強制共感マシーンとなり、他者や環境を破壊するベクトルを持つようになります。

 

①の失敗は、主に「自分の行動と付加価値」が「原因と結果」の因果関係にあるということを見逃していることによって起こります。結果の甘い果実だけに注目して、それを得るための行動がどのようなものであるか、についての考慮が疎かだからです。

 

人間の行動は、例えば「踊る」という行動は、自分目線で言えば「体を音楽にのせてリズミカルに楽しく動く」という内容になりますが、これを「因果関係における原因」と見なした場合、「どのような場で、どのような行動を取ったか」が問題となってきます。

 

自分目線では「どのような行動を取ったか」にばかり注目しますが、「どのような場で」という要素も同じくらい重要になります。

 

例えば、「踊る」なら、Youtube動画に出演して、みんなに見てもらうという場であるならば、「どのように踊ったか」だけが問題になります。しかし、もしある企業がコンプライアンス違反で謝罪会見をする場であるならば、役員の人はどのように踊ってもアウトですね。

 

このように、「行動」は、常に「場」とセットで考慮する必要があります。Youtubeのように、一般人に「場」を無料でお膳立てしてくれるようなサービスもこの世にたくさんありますが、考え方としては、常に「行動と場」のセットで認識した方が良いと思います。ちなみに時代の流れによってでも「場」は変化します。

 

そして②の失敗は、行動の定形化が効率化に結びついていない、ということです。なぜ定形化するかというと、効率化をするという小目的のためです。これは「手段と目的」の関係ですね。つまり、効率化できないのなら、定形化する意味は全くないのです。

 

しかし、実際には定形化を手段として、違う目的を果たせてしまうことに繋がります。それは「思考停止」です。あんまり変化しないで、生きていくというのは、「同じことを繰り返す」ということです。その大河にハマってしまって、「定形化→効率化」の小川に水がいかなくて枯れました、という、一種の罠があります。

 

同じ「行動を定形化する」というアクションも、その背景が「思考停止するため」なのか、「効率化するため」なのか、によって得られる結果が「衰退」か「不自由からの解放」かに分岐するということです。

 

結論を言うと、人は「より優れた行動とは?」に意識がいきがちですが、実際は、行動は「場」との相関だし、「効率化」も重要だから、それ無視したら当然上手くいかないですよ、ということです。

 

私は上手くいっているかというと、社会における行動という意味では、ほとんど行動をしないという判断をしていますね。私の欲は頭の中で完結しちゃうからなんですね。行動をしない、というのは中々面白い世界ですよ。場を拡げまくって、何もできなくなった、とも言えるし、何もしない変なやつになった、とも言えます。

 

行動するというのは武士で喩えると「刀を抜く」居合抜きのイメージを私は持ってるんですが、「刀を抜かない」武士も、奥が深いな、と思っています。