ダブルスタンダードという言葉について

最近、お昼のワイドショーとかで、「ダブルスタンダード」という言葉を聞くんですが、意味が分からず「んっ?」となっていました。

 

ダブルスタンダード」をググってみると、この意味は「二重規範」というものらしいです。

 

具体的には以下のケースが当たるとのこと・・・

・政治家が、選挙の時に「国民のため」と言っていたのに、当選してみると自分のお友達のみに対して利益供与をすること

・マスコミが、批判的な事柄に対しては徹底的に批判するのに、マスコミ自体に批判が向かった場合、それを報道しないこと

 

このように、自分や、相手によって態度を変えることがダブルスタンダード、ということのようです。

 

私は、この言葉「ダブルスタンダード」をあんまり使いこなせないなぁと思います。「二重規範」が問題になるには、前提として「無矛盾な規範に基づいて行動すること」を是とする社会文化が必要になるからです。

 

日本はそんな国だったでしょうか?誰かが規範に則って問題提起したら、「空気を読めないやつ」としてうっとうしがられる文化だと思っていたのですが。

 

私は行動規範はなんとなくありますが、完全に言語化してないので、よく把握していません。「特定の規範があるから、その通りに行動しよう」とは思っていないことは確かです。

 

そもそも、「あなたの行動規範には矛盾があるよ!」という指摘についてですが、矛盾自体、観測してる人間がせっせとこしらえたものですからね。

 

この世には、そもそも矛盾などありません。自分の中で、狭い範囲でしか見られないような法則、短い物差しを組み合わせて、初めて「矛盾」が生まれます。

 

私も「これ矛盾してるな」と思うことはありますが、それは単に私が近視眼的なだけで、持ってる物差しがへぼだからに他なりません。

 

そういう意味で言うと、「あなたの行動はダブルスタンダードだ」という主張は、同時に、「私の持ってる物差しはどれも短いんだ」というマイナスの宣伝になっているのです。わざわざそれを公の場で言うのか?と思います。

 

先ほどの具体例の、政治家への批判について、「国民のためと言っていたのに、一部の人だけえこひいきしてる、これは二重規範だ」って、なんかおかしくないですか?

 

「あなたは自己中心的な欲張りだ」で事足りる気がします。マスコミへの批判に対しても、同じことが言えますね。

 

日本社会で、これといった「行動規範」ってあるんでしょうか。「みんなが不快にならないように気を配りあう」かな・・・でもこれって、私と同じように「行動規範の通りに行動しよう」とは誰も思ってないんじゃないでしょうか。

 

不快/快は、ありのままの感情なので、「規範」という理性の産物とは無縁な気がします。そういう意味で、「二重規範」は日本文化とは馴染みが薄い言葉だと思います。

 

それとも、「あなたは自己中心的な欲張りだ」は、相手の人格否定になってしまうので、それをやんわりとオブラートに包むために、「ダブルスタンダードだ」という言い方をしてるのかもしれませんね。

 

あと可能性としてありうるのは、「政治家は自己中心的な欲張りでもいいけど、ダブルスタンダードはやめてくれ」という大人の批判なのかもしれません。「不正するなら、ばれないように隠れてやってくれ」と同じニュアンスですね。

 

こうして見てみると、「ダブルスタンダード」は日本文化とは馴染みが薄いけど、グローバル社会のくくりで見ると、使いやすい言葉なのかもしれませんね。

 

ただ、相手に「あなたは自己中心的な欲張りだ」と言うのが嫌ならば、言葉をオブラートに包むのではなくて、「自己中心的な欲張り」の人をスムーズに要職から外せるシステムを作った方が良いと思います。

 

武力革命を、コストパフォーマンス的に研ぎ澄ませた形が、これに当たります。