教養人の姿勢

オックスフォード・ユニオンという弁論団体についてのネットニュースに、世界のリーダーを育てる教育手法が紹介されていました。

 

簡単に言うと、本を読みまくって、それに対して批判的に考えてみたり、複合させたりして、自分の考えを形作っていく、そしてそれをエッセイや、ディスカッションなどで正確に表現する、みたいな実践をやっているそうです。

 

今、読み始めた本「西洋中世世界の成立」にも、本文にたくさん注釈がついていて、その注釈には、「~については〇〇の本を読むことを勧める、その批判本としては△△の本が良い」みたいに書いてあって、著者の増田四郎さんは、山ほど本を読んでるんだなぁと思いました。

 

インプットとして、たくさんの本を読むというのは、意味はあると思うんですが、その意味とは「何かを主張するときに、防御を固める」目的に適ってることじゃないかなぁと思います。

 

「何かを主張するなら、周りのみんなを説得、納得、共感させなければならない」というのは、リーダーには必須のスキルでしょうけど、私の考えは違いますね。

 

周りのみんなが「私の意見A」を聞いて納得するかどうかなんて、どうでもいいです。どうでもいいというか、「意見A」を採用しても、不採用にして忘れても、保留してとりあえず覚えておくのも、いいですよ、あなたの自由ですよ、というスタンスです。

 

これだと、多分、「同じ意見を持った人のグループが大きくならない=政治的に弱い」、ということになるんだと思いますが、私は、他人を操作することに関しては、全くのど素人で、あんまり興味もないんですよね。

 

ある意見を鵜呑みにした大量の人間が、一致団結して動いても、暴走して壁に激突して大破するのが関の山ですし。

 

たとえば「SDGs推進派の人」を仮定してみても、「人類の存亡を本気で心配してる人」「クリーンエネルギー使ってる雰囲気がなんか心地いい人」「SDGsを利用して金儲けしようとしてる人」「親の仇がたまたま油田のオーナーだったという人」とゆうように、色々いるんですね。これらの人は、皆、SDGs推進に納得しているし、意見が一致しているし、団結して動いていくでしょう。

 

私は、これって、何か変だな?と思うのです。つまり、「SDGs推進が重要だ、という意見を理解すること」と、「意見に納得すること」は違うということです。

 

あ・・・これ、デジャブですね。理系の人が「理解することと、納得することは別だ」とYoutubeのコメントでゆってたのと同じですね。

 

元の話に戻ると、「自分の意見」の、防御を固めて、批判を跳ね返し、みんなを納得させる、という行動には、「みんなに理解させる」という要素が含まれない可能性があるのです。

 

極端にゆうと、「扇動」も含まれる、だから私は他人が納得するように、色々工夫するのが苦手なのです。もし、「バカは賢い人の誘導通りに動けばいい」という前提があるのなら、扇動もありでしょうけどね。

 

その方がいいのかなぁ。私はこういう考えは、あんまり好きじゃないですね。みんな平等がいいです。私がまだまだ未熟者だからこういう風に感じるのでしょうか。

 

「その時代、場所においてもっとも正確な意見は、必ずしも他者から納得されるとは限らない」この命題について、オックスフォード・ユニオンの人はどのような答えを出すのか気になります。

 

「その時代、場所においてもっとも正確な意見は、過去の意見の批判・複合から得られるとは限らない」この命題についてはどうでしょうか?

 

「他者を納得、扇動できない意見には価値が無い」これだったらどうでしょうか?

 

私のようなことを言う人は過去にいなかったのでしょうか。それが不思議です。