戦争が起こったときには、戦争を「より小規模」なものに、「より短期的」なものにするように圧力が加わりますが、それは表象的な現実の絵合わせであり、対応としてはそれが全てではありません。
やるべきことは、破壊と創造の「根源」というべき意志の表明です。
ウクライナ人は「こんな世界はもう嫌だ、手の打ちようがない」と思っているでしょう。それは厳しい環境に置かれれば、誰でも思ってしまうことです。
これは破壊活動が精神にまで影響を及ぼす波です。視野を広げてみれば、破壊の精神というものは、社会の隅々まで、どこにでもあるように思えます。
それがひとつの文明を丸ごと破壊する、又は破壊を決定的にする要因になりえることは、歴史を省みれば明らかです。
しかし同時に、破壊の洗礼に耐え、残された創造遺物・・・これが今ある国家であり、人の精神であり、物質です。
これら創造遺物は、人が生きる上でとても重要なものですが、これは創造(収益)と破壊(費用)との相克を経た後の、残りかす(利益)です。
残りかすを守ることも、ある程度意味がありますが、それよりも大事なものは、「創造」と「破壊」の分岐の根元にある、物質的・精神的な源泉の領域にアクセスすることです。
これは創造も破壊も、同じ領域からの派生であるということを意味しています。
創造遺物を利用しよう、ではなく、注目すべきは、そもそも創造すること自体に価値があるということです。
「創造して、後に破壊された、今までの努力はなんだったんだ?くだらない」
というのは、遊びが足りないです。
「どんな遺物が残ろうが、それを破壊されようが、自らが滅びようが、そのような枝葉末節は関係ない、生きてる限り創造し続ける」
という根源的な意志を汲み上げる作業こそが、人間の遊びの真骨頂だと思います。
もし神がいるのならば、この意志を育て、実践する者を尊重するだろうと思います。