動けなくなった人へ

人は絶望感を抱くと動けなくなります。何やっても無駄に思えるからです。

 

そういう状態は、あまり良くないんじゃないか、という印象を持ちます。実際、生物が何もしなければ死にますからね。

 

しかし、客観的に見ると、そうとも言い切れない見方もあります。

 

人間の生命現象を、「平面上を自分が何らかの方向に移動する」という簡略的な客観視をしたと仮定します。あるいは、立体として見ても構いません。

 

そういったときに、「絶望感を抱いて身動きが取れないでいる自分」は、平面上で微動だにしない点のように思えるかもしれませんが、

 

実際は、なんらかの方向に移動しているのです。行動として何もしなくても、生命現象として客観的に見た場合は、移動しないというのは(能力的に)ほぼ不可能です。

 

身動きがとれなくても、自分の体は変化しているし(細胞が増えたり消えたりする、腸内の細菌はウヨウヨ動いてる)、同じように外の世界も次々と変化しています。

 

私たちが意識的に「何かをやろう」というのは、平面上において特定のベクトルを持って、移動しようという意志です。

 

それもひとつの移動ですが、それが人間の生命現象のすべてではないということです。

 

「意識的な移動」ができないといっても、かならずしも悲観する必要はありません。自分は生きてるだけで平面を移動しているし、周りも勝手に移動しているのです。

 

そういう意味でいうと、意識的に何もしなくても生命現象としては何も問題ないのです。客観的に見てる人が、それをいじくろうとはすると思いますが、その作業はその人にお任せしましょう。

 

この観点でいくと、例えば脳死状態で死んだように寝てる人も、立派な生命現象で、常に移動しています。その生命現象について、私は客観的な視点で正確に見ることはできないので、あれこれ評価することはできないし、やろうとも思いません。

 

ただ、その人が大切な人ならば、体を拭いてあげたり、意識が戻った時に備えて準備を整えたりするかもしれません。それは私の意識的な移動です。

 

意識的な移動の範疇においては、どのような価値観が良いかとか、どのような考え方が良いかとか、どのような行動が良いか、とかは意味を持ちますが、

 

もっと客観的な視点に立つと、「何もしない移動」と「意識的な移動」は等価です。

 

私はあんまり行動をしないので、そんな自分を甘やかすような考え方ですが、それを差し引いて、襟を正して公正なジャッジをしても、やっぱりそうだよなぁと思います。

 

何もしない、でも恐れることなかれ。何もしなくても自分は移動をしているし、外も移動をしているのです。