信じるということ

私は「すべてを」「信じる」ということが重要だ、みたいなことを書きました。

 

それ言ってる私は、実はそれができていないタイミングもあるし、できているタイミングもあります。

 

ちなみに今この日記を書いているときはまぁまぁ信じています。

 

信じるってけっこう難しいと思うので、ちょっと理解を深めた方がいいなと思って、メモとして書いておきます。

 

まず、「信じる」イコール「味方だと思う」というのも、不正確です。

 

ただ、信じられているから、相手が味方になるということはあり得ます。

 

あと、信じているからこそ、本気で敵対する、ということもあり得ます。

 

敵対しているけど、「大きな視点に立つと、一蓮托生だから、味方だ」という見方もあり得ます。

 

ここまで書いて自分でわかったのですが、

 

私の言ってるカギ括弧つきの「信じる」とは、言葉のような平面的な表現では、なかなか表現しきれない、立体構造の意味なのだと気づきました。

 

そもそも人間の考え・思念というのは、それ独立して、固定して、ビルの定礎の石みたいに確固に存在しているわけではありません。

 

体調が悪ければ、ものや人の見方がコロコロ変わります。

 

「それは、そういうものだ」「そのままでいい」「問題ではない」です。

 

あと、「どの視座に立って、ものや人を見るか」によっても見え方が変わってきます。

 

「自分本位での信じる」と、「大きな視点に立っての信じる」が異なるように。

 

利益をあげる、つまり幸せになるためには、「自分本位で考えて」「大きな視点に立って」それを両方して、バランス感覚でもって、最適な考えを持つ、というのが2024年時点の地球では、もっとも効率的な手法だと思います。

 

が、今言っているのは「信じるとは?」ですから、そのテーマにおいては、「利益追求ゲーム」の枠内ではありません。それは今は、とりあえず横に置きます。利益追求のテーマについては、言及しないし考えません。

 

注目すべきは、簡単に言うと、

 

「自分本位で考えると」「あいつらは敵で、彼らは味方だけど」

 

一方、「大きな視点に立つと」「実はあいつらが味方で、彼らは敵になってしまう」

 

という、敵・味方の逆転現象がコロコロ起こったりするのです。

 

ここで情報を流しますが、「地球人は、自分勝手に利益追求する係として、存在してきました」「西暦が始まってから2000年間、あるいははるか昔から」です。

 

そういう地球人にとって、「敵が誰で、味方が誰なのか」ということはとても重要なファクターになります。それはそれで構いません。未来に置いても、それでもいいと思います。

 

そして、その敵・味方の区別が、「固定的であったら都合がいいな」という発想をします。

 

例えば「週刊誌は敵であってほしい」

 

前提からいうと「敵・味方の区別をつけないと」「自分の生活をRUNできない」

 

「自分の生活をスムーズにRUNするためには、敵・味方を正確に把握して、それが固定されていた方が都合が良い」

 

ということです。

 

ただ、今回のように「信じる」というテーマにおいては、

 

「敵・味方は視座によってコロコロ変わりうるよ」「それが事実です」

 

ということになり、「信じる」を実践するのであれば、その事実を受けなくてはいけないだろうと思います。

 

ここまでをすべて踏まえると、

 

「信じる」においては、

 

「その時の自分の体調とかによって、敵・味方が変わるよ」

 

「どの視座に立つにかによって、敵・味方が変わるよ」

 

という、非常にわけのわからない、何が何だかわからないような、難問として現れてきます。

 

例えば、「視座によって敵・味方」が変わるのであれば、

 

自分の恣意的な視座設定が、意志決定に大きな影響を与えることになるじゃん。

 

自分は普段から、恣意的な判断(例えば好きな方にだけいくとか)をしているから、それって怖いな。

 

となるのが普通です。それも構いません。そのままでいいです。

 

要は「みんな、怖いこと(危ないこと)を、平気な顔で日常的にやっている」ということなのですが、

 

なぜそれでもいいかというと、私は今、みんなを信じているからです。

 

あんまり長く書いても無意味なので、重要な結論を言うと、

 

「すべての人は、すでに、やろうと思わなくても、『信じること』ができているのです」

 

「ようし、信じるぞ」というのは必要ないのです。

 

「風邪引いても、『ちゃんと家事はやっとけよ、お前は専業主婦なんだから』とかいうヒドイ夫のことをめちゃくちゃ憎んで、敵にしか見えない瞬間」

 

であっても、あなたはその夫を「信じる」ことができているのです。

 

つまり私は「すでにみんなできていることを」「大事ですよ!」と言っているということです。

 

変なことを言っているのは私です。

 

ただ、私のやっていることがちょっとおかしくても、「信じることが大事だということは」その通りなのです。

 

要は、以下のことを共有したいと思ってこれを書いています。

 

・「信じる」ってことそのものを体感して、よく知覚するとGood

 

・すでに信じることができているのに、「自分は信じられていない」と勘違いすることはBad(私はこれをやっていたのでBadでした)

 

あなたはいついかなるときも「信じることができている」「大丈夫です」ということを伝えたいです。

 

利害関係が絡むと、「あいつは信じられない」ということはあり得るので、それと混ざると、混乱するので、今整理して表現しています。

 

ちなみに、利害関係でもって、「あんなやつ信用に足らない」というのは別に思ってもOKです。それはいつも通り好きなように自由にやってください。

 

「あんなやつ信用に足らない」けど、「あんなやつをあなたは『信じている』」

 

ということです。

 

ふ~ん、なるほど。

 

自分で書いてて、まぁまぁよくわかりました。

 

こんなことですが、これが絶大な効果があるのです。全体運営に関しては特にですね。

 

つまり「信じる」ことは、利害とは関係ないです。

 

だから、「はぁ・・・だから?どうでもいいよ」と思ってもらっても構いません。

 

知らないうちに、結局、良い効果は表れますから。

 

繰り返し、以下を記しておきます。

 

・「信じる」ってことそのものを体感して、よく知覚するとGood

 

・すでに信じることができているのに、「自分は信じられていない」と勘違いすることはBad

 

今回は以上です。