女性の気持ちがわからないけど考えてみる

まず「女性の気持ちを考える」というのがズレていそうですね。

 

気持ちは、考えじゃないですから。

 

私は人間の意識の中の、一部の機能については、コレクター状態ですが、それ以外の要素についてはわかりません。

 

なので、女性の気持ちを知ろうとするのならば、まず、自分の気持ちをよく体感することから始めるのが正しい道筋なのだと思います。

 

でも、私の感情面は、比較的、薄いです。薄情者と言って良いと思います。

 

だから、上手くできないんです。才能がない。

 

才能がないけど、女性というのは、根源的に不幸であると思っています。

 

なぜか。

 

世界と利害対立しているからです。

 

「えっ生命の母である、とっても重要な仕事を任されている、女性が!?」

 

と私なんかは思いますが、

 

「利害対立している存在に、重要な仕事を任せている」

 

という辺りに、世界の妙を感じますね。つまり、そういうことです。

 

「がんじがらめ~」

 

がんじがらめ、それは窮屈です。私のように広いフィールド(情報世界)をハエのように高速で飛びかって戦うスタイルの人間にとって、そして本心から「自由を好んでいる」人間にとっては、はっきりいって窮屈です。

 

でも、ハエは、管理対象とするならば、虫かごの中に入ってもらった方がいいですよね。

 

そしてそれが実験対象であるならば、なおさら研究所の窓から逃げ出されては困るわけです。実験にならない。見えなくなっちゃうから。

 

ということで、きゅうくつな、意味不明な矛盾構造、がんじがらめ~の箱の中に、「しょうがない、ここが現場だ」と思って、許容しています。

 

嫌な条件でも、「その条件下で戦ってみろ」と上から言われたら、「わかりました、その条件下で成果を上げて見せます」と私だったら答えます。

 

「それは嫌です!オレを自由にしろこのバカ!」というのは無能をさらけだしているのと同じなので、まぁ、結論を言うと「私はそれ(拒絶・抵抗)をやりません」

 

話が脱線したので戻しますが、女性は、「構造的に不幸」なんです。

 

特に、男性と比べたら、遙かに不幸です。

 

「女性個人に問題があるから不幸になる場合がある」

 

そういう要素もゼロではないでしょうけど、この日記で注目する点は、その層ではなく、「女性は構造的に不幸である」という点です。

 

だから、ちょっと問題がある女性も、あまり問題がない女性も、平等に、「その構造的不幸」に対するカウンターをする必要があると思っています。

 

私のような戦闘気質の人間は、「自力でがんばれよ」と厳しい発想をしますが、

 

女性からは、「戦うための刃」も取り上げられています。

 

だから、男性に対しては「自力でがんばれよ」で、おおむね大丈夫だと思いますが、

 

女性に対して、それを言うのは明らかに酷です。

 

だから、男は女性の構造的不幸に対する、カウンターを入れてあげる

 

つまり、「やさしくする」ことが、

 

「できたほうがいいです」

 

私は今、十分にできていないので、「雑魚が何言ってんだ」と思われるでしょうが、私も自分なりに、未熟者ながら、その方向でがんばっていこうと思っています。温かい目で見て頂けると幸いです。

 

女性の在り方を推察すると、「概念」で生きていないようです。

 

例えば「愛」が生まれる源泉、得体の知れない「何か」

 

自分をすべて包み込んでくれるような、同化して溶けてしまいそうな、圧倒的一体感。

 

自己と世界の同一性を確認できるような、「大いなる海」

 

私はそれをよく体感したことがないのでわからないのですが、

 

理性で、頭でっかちに、色々考えている私とは、

 

棲んでるフィールドが明らかに違う、

 

特別な、素晴らしい、強制力の強い、抗えない、「海(例え)」に生きているのが女性なんだと推察します。

 

私はハエなので、その海からはとりあえず急いで脱出しますが、女性はそこがホームグラウンドである。

 

私になにができるだろうか。

 

とりあえず、人間の女性と、会話したり、キャッキャしたりできます。

 

言葉で話しが通じます。

 

自分の想いを、言葉や仕草に乗せて表現することができるかもしれません。

 

とりあえず、「きついだろうけど、負けてほしくない」

 

「利害対立構造に、惑わされないで」

 

「絶望しないで、あなたは必要とされている」

 

「ぼくたち、そしてわたしたちは一体である」

 

「本音を言うと、『一体だと思わないと』、しのいでいけるような生ぬるい環境ではない」

 

って感じのことを、

 

例えば私のパートナーにそのまま言っても、

 

「こいつ頭おかしいんじゃないか」

 

と思われるでしょうから、

 

そういう「想い」を、あらゆる言葉、仕草に乗せて、伝えることによって、

 

女性に対する「癒やし」になればいいなと思っています。

 

良いこと言ってるな~と我ながら思いますが、

 

そうそう、さいきんのヤフーニュースとかで、

 

「正義ぶっているやつ」「良識のある良い人ぶってるやつ」

 

なんか胡散臭い、気に食わない

 

みたいな論調をチラリと見て、ちょっと興味がわいたんですけど、

 

「正しいこと、きっちりしていること」「正論」とか

 

なんでそんなものを採用していると思いますか?

 

はっきり言って、正しいことを背負うのは、疲れますよ。

 

なんでそんな疲れることを積極的にやっていると思いますか?

 

「そうしないと、しのげないくらいのむちゃくちゃなカオスな環境に生きているから」ですよ。

 

地球上に生きていると、そんなこと感じないでしょうけどね。

 

事実、私も自宅のリビングで、のんびりトラックゲームとかしてのほほ~んとしています。

 

しかし、それはただの「虫かご」です。

 

「なんでもありの世界」

 

それに私は生きています。事実として。認識としては、「地球のぬるい環境で生物として生きています」。

 

その厳しい、きっつい環境に存在している、という事実をよく認識しているからこそ、

 

「正論」を採用したり、それをリリースしたりするのです。

 

「そうしなきゃやばい」「そうせざるをえない」

 

そういう危機感を持って、トラックゲームをしながら「のほほ~ん」「あっ、ぶつかっちゃった、テヘ!」とか言ってるわけです。

 

全員がそうあるべきとは言いませんが、

 

地球という「ゆるい環境」に棲むこと、そこをフィールドにすることを許されていること、そういう環境を実際に提供してもらっていること

 

「それでお前は十分だ」と、ハードルを下げてもらっていること

 

に対して、

 

感謝の気持ちを、ほんのりとでもいいので、持った方がいいですね。

 

これは、私の個人的な提案です。

 

女性をどうするかは、みなさんの自由です。