ランボー怒りのふて寝

例えば、殴られたら、痛いですね。

 

まぁ、殴られたら、普通は恐怖とか、あると思いますが。

 

気の強い人だったら、ムカつきますよね。

 

ムカつく、怒りっていうのは、

 

「危険」・・・

 

それも、痛いところ・ウィークポイント

 

本当はガードしたいけど、ガードできていないことをうすうすわかっていて、それを見ないふりをして平気な感じで生きてるけど、

 

あるとき誰かに、その急所、弱い部分を、攻撃された。

 

「めっちゃやばいじゃん」という危険信号がマックス点灯しているということなんです。

 

それが、「怒り」の感情として湧き上がってきます。

 

だから「怒りっぽい人が悪い」と見るのではなくて、

 

ただ単に、「信号出てんだな」という解釈を、私はしています。

 

信号がピカピカしてることは悪いことではありません。

 

だって、信号光っちゃったんだらしょうがないじゃん。

 

問題は、「本当に危険なの?」ということです。

 

危険じゃないのに、信号光ってるなら、ある意味、誤作動です。

 

例えば、「自分にとっての正しさが否定された」とか。

 

「お前の言ってることは、間違ってるんだよ!」

 

とか言われたら、まずムカつきますよね。

 

私だったら、まず「なんだコイツ?」と思います。

 

「なんだコイツ?」の解像度を上げると、

 

「何をわけのわからんことを言ってんだこいつは?『一体何がしたいんだ?』」

 

と、いうことです。

 

もし、私が相手の言ってることの内容を正確に受け取って、私の考えの間違いを的確に指摘しているなら、

 

「あぁ、ありがとう」と思いますが、そういうちゃんとした批判をしてくれる人は、けっこうレアキャラですね。私の経験上ですが。

 

大体、「一体何がしたいんだ?」のとこを把握すると、

 

「あぁ、それで『お前の言ってることは間違ってるんだよ!』って台詞が出てきたのね」と納得するケースが圧倒的に多いです。

 

そういうケースでは、おおむね、その人の本当の主張は「お前の言ってることは間違ってるんだよ」ではない場合が多いです。

 

私は自閉症気味なので、この辺のコミュニケーション能力がありません。(最近ネットフリックスで、自閉症の医師ががんばる米ドラマを楽しく見ています)

 

私は、言葉にこだわるタイプです。特に、議論とかの話し合いでは。

 

最終的に、同意の取れる結論を、言葉で表現することを目的としています。「こういうスタンスの違いで、同意に至らなかったんですね」という終着点も含みます。

 

その結論の言葉を、プログラムコードとして、脳に記録し、「私たちは一歩進んだね」という成果を得るのです。

 

でも、そもそもそれを目的としていない会話の場合は、「本当の気持ち・自分が大事にしている気持ち・守りたい気持ち」と、「言っていること」が違う場合がめちゃくちゃ多いようです。

 

例えば「お前の言ってることは間違っているんだよ」は

 

「オレの考えは正しいんだよ」の裏返しだったり。

 

「オレの考えは正しいんだよ」を詳しくたどると、

 

実は「自分が頼りにしている信仰は正しいんだよ」となり、

 

さらにたどると、

 

「本当は、頼ってる信仰を全力で信じたいんだけど、本当に正しいのか、信じて大丈夫なのか確信がもてないんだよ」

 

だったりするのです。

 

だから、私の自閉症チックな対話手法で言えば、

 

「お前の言ってることは間違っているんだよ」ではなく、

 

「自分は○○を信じて頼っているんだけど、ちょっと不安で・・・大丈夫かな?」が適当になるわけです。

 

ただ、これを言える人は、非常に少ないです。

 

言える人は、マジでレアで、とっつきやすいですね。

 

私だったら、こう言える人は、好きですね。ちゃんと、やってるな、と安心します。

 

言えない人を見ると、「おま、大丈夫?」とちょっと心配になります。

 

だから「こいつは何がしたいんだ?」と探りを入れたりします。

 

ただ、心配になっているのは「私の問題」なので、その人のせいではないかもしれません。

 

心配しないことは私の仕事とする、でいいんですけど、

 

会話として「○○だよ!」と言われているので、

 

状況として、「何か返事しなきゃ」いけないじゃないですか。だって会話だから。

 

結局、「お前の言ってることは間違ってるんだよ!」も、

 

別に、河原で一人で叫んでも、OKなことじゃないですか。

 

「本当は、頼ってる信仰を全力で信じたいんだけど、本当に正しいのか、信じて大丈夫なのか確信がもてないんだよ!」

 

って。

 

それを、会話形式の枠内で、やるっていうのがけっこう狂っていて。

 

「あぁ、うん、確かにそうだね!私が間違ってたみたい、あなたが正しいと思う!」

 

と言ってもいいんですけど、これって嘘じゃないですか。

 

だって信仰の内容が不明だから、肯定も否定も不可能です。

 

たまたま正解だったらいいですけど、例えば悪質なカルト宗教とかを信仰していたとしたら、その嘘が、相手を崖下に突き落とす一押しになりかねないですよ。最悪の話。

 

そもそも「信じてることが間違っててもいいから、自信持って幸せに生きていたいんだよ!」というケースもあるので、

 

もはや難問すぎます。

 

だから、テキトーに、

 

「はいはい、そうだね、家帰って寝ろよもううるせーな」とか軽口言ってればいいんでしょうね。

 

結局、会話ってなんでしょうね。

 

私は、できればどんな相手でも会話を通して一緒に「一歩進みたいし」「相手のこともよく知りたい」のですが、

 

(※ちなみに、これ↑はただの私の個人的な趣味です)

 

私は、河原で言えばいいことは河原で言いますし、

 

相談とか、相手が必要なことなら、ちゃんと、言いたいことをちゃんと言葉に変換して相手に伝えますね。

 

この辺は、どうした方が良いとか、ないと思います。

 

ただ、人間にもパソコンみたいに「基本OS」があればいいのにな、とは思います。互換性がない場合がけっこうあるので。

 

大分話が迷子になりましたが、

 

怒ってるときも、どんな気持ちの時も、「今、自分は大丈夫なのかどうか」をよく自己診断して、

 

「もし大丈夫なら、怒りの信号ピカピカする必要ないんじゃねーの」ということを結論にして、今回は終わりにしようと思います。