A diary 8/25その②

再現性について。

 

再現性とは、「時刻や、場所の制限を受けずに、ある行動で同じ現象が起こる」ということだと思います。

 

私が日記を書いているのも、「他人のような自分の考えを文章にして反芻したら(行動)、面白いな(現象)」という再現性があると思っているからです。

 

牛乳を飲むのも、「前に飲んだとき美味しかったから、今飲んでも美味しいだろう」という一種の思い込みにより、そういう意志決定をしています。

 

再現性は、自然科学の分野で基礎になっているし、ビジネスの世界でも効果的なマーケティング手法として再現性のあるテクニックを開発したりしているのでしょう。

 

ここで一時、フラットに考えてみると、

 

「再現性」が確認できる環境は、どのように存在しうるか?という疑問が湧きます。

 

水を火にかけると、数分後に、「必ず沸騰する」

 

ふぅん、なるほど。「それってどうなってるんですか?」という質問に答えられる科学者は存在するでしょうか。

 

そもそも、水分子って何でしょうか。

 

水分子Aと水分子Bは同じものなんですか?そしてそれらは熱すると同じ条件下ならば必ず同じように(100℃くらいで)沸騰する?

 

これってかなりの異常事態です、と私は思います。

 

どうやって、それを作った?どうやって「同じもの」を用意した?

 

「物質」があって、「それを観測する人間の眼」があって、「同じだ」と感じるためには、けっこう手の込んだ舞台装置を整えないと、不可能だと思います。

 

普通は、素朴な世界においては、「同じもの」も「同じこと」も無いし、行動の結果が不定な状態である可能性がとても高いです。

 

そういった人間目線では「無秩序」な世界においては、人間は、行動をしようという動機を失い、(仮に手足があったとしても)動かなくなるでしょう。

 

そうなると、人間はやっかいな存在ではなくなります。というか、その「人間」とはどのように境界線を切り取っての「枠組み」なのかさえ、定義があやふやになります。

 

自分はどこからどこまでなのか、自分と他を区別する必要があるのか、それすらも怪しくなってきます。朦朧とした、あるいは激烈な、「漂い」にしかなりません。

 

しかし、現実の人間の目線では、再現性という出所不明の謎ルールが存在するように見えます。

 

「NAZO」とタイプしてスペースキーで変換すれば必ず「謎」と表示されるので、私はそのような行動を取っていると言った感じです。

 

なぜ再現性があるのか?ひとつの可能性としては、

 

人間を、もっとやっかいな、暴走気味な、破壊の権化に仕立て上げるためには、この「再現性」を導入すれば、簡単に作れるという都合があるからかもしれません。

 

アルコールを飲めば毎回酔える、だから大量のアルコールを求め、それを得るためには家族に暴力を振るうことも正当化する。

 

みたいな暴走を生み出すためには、再現性は必要条件になります。

 

もちろん、平和的なアルコール愛飲者もいるので、十分条件ではありませんが。

 

ただ、こういう「暴力的なアルコール中毒者」を、再現性のない「無秩序」世界に放り込んだら、おそらく数日経てばアルコールを求めて暴れることはなくなるでしょう。

 

この世界では「アルコールを飲んだら必ず酔える」というルールが無いんですから。

 

あるときは砂糖水みたいな味がするかもしれないし、次の瞬間には舌が焼けただれるかもしれない。

 

そのような環境で、「アルコール飲料が欲しい」とは思わないし、そのための行動も取らないでしょう。

 

世の中では、成功者のメソッドを自分にも取り入れようと、「秘密の再現性」を見つけようとがんばっている人もいるかもしれませんが、

 

水を差すようなことを提示しますが、その「再現性」の導入こそが、人間を暴力的に仕立て上げるためのお手軽メソッドである面があるんですよ、と言ってみます。

 

もちろん、再現性を用いないと、人間はスムーズに生活できませんが、

 

私たちの生活は、そのような暴力喚起装置と寄り添う形で、成立しているんだろうなぁと私は思っています。