対自然をやめてみた

自然を「自分以外すべて」と定義したときに、私は対自然のゲームが好きで、ハラハラドキドキなのですが、

 

このスイッチを切ってみたら、大きな力にコバンザメみたいにくっついて、都合の悪いものを撃破し、弱者は見捨てよう、という発想をわずかに再現することができました。

 

変な人から→まぁまぁ普通の人にグレードアップもしくはグレードダウンできたという意味なんだと思います。

 

一般の人々は、自然のうごめきについて、ほとんど無頓着です。まずよく見えないし、対象が大きすぎて自分独りじゃ何もできない、とあきらめているからです。

 

例えば普通の暮らしができている人は、「よくわからんけど今は安全」という、根拠のない幸せに、漠然とした不安を感じているでしょう。

 

つまり、「よくわからん」のが、どうしても拭い去れない不安の種のひとつということです。

 

求めているのは「よくわかる安全」であって、多くの人が権力を求めたり、権力に縋ったりする理由は、「それが強いから」というのは厳密には不正確で、正確には「それがわかりやすい力だから」というものになると思います。

 

個人や組織が持つ「情報力」というのは、総力をひとつのものさしで測った場合、その全体のおそらく50%くらいを占める重要な要素だと、私は思っていますが、

 

この情報力がないがしろにされる理由は、「情報力」というものがわかりにくいということに尽きると思います。

 

もし情報力を、わかりやすくする、目に見えるようにする、ことができれば、「情報力」に対する世間の評価というものが上がり、そのフロンティアが開拓されるようになると思います。

 

そのための第一歩として、DX(デジタルトランスフォーメーション)のような手段が有用だと思います。

 

情報のデジタル化によって、情報処理精度が上がるだけでなく、情報力そのものの信頼が増すというのは、大きなメリットです。

 

私は対自然のスイッチを切ってみて、スイッチON→OFFの切り替え技術を磨こうと思います。