心の声

何かを考えるというのは、心の声で、独りで自問自答を繰り返して、正解にできるだけ近づけていく、という作業だと思います。

 

最近は、ほとんど心の声を使っていません。声に出してしゃべるときは、自然に心の声も出てるんでしょうが、心の声オンリーで、何かを問うて、答えるということはあまりしなくなっています。この日記を書いてるときは、考えながらパチパチ打ってますけどね。

 

他の人の問いに、答えるというのは、意味があるような、ないような感じがします。なぜなら、結局、答えが、相手の意思決定に使える情報でなければ、「じゃあその情報何に使える?」と思ったときに、あんまり使えないからです。

 

例えばどこかの国の首相や大統領に対して「人間は地球で何をするべきか?」という問いを発して、「ある答え」を得たとしたら、

 

その答えを、そのまま意思決定に用いるケースは稀じゃないかと思います。その情報の扱い方としては「〇〇国の政治のトップが、問いに対して~の答えをした」という事実があったことを、まずはそのまま頭に記録して、「自分中心の人をトップに据えるこの国やばいな」とか「なかなか切れ者だな、このリーダーが在籍中はこの国は安泰だな」とか、事実から国の中身を推測して、未来予測に使って、そしてやっと間接的に意思決定に役立つ、というプロセスを通ります。

 

問いと、答えのセットを、そのまま頭に入れて、使えるなら、教育も簡単なんですけどね。厳密に言えば、人はひとりひとり全員違うし、又、普遍的で共通だと思える部分もあるから、それを前提にして「確からしい」ことを教えていく、しかないですね。

 

みんなに共通する前提条件は、「人間として」だと比較的何でもありになってしまうので、「コミュニティの一員として」どういう条件を満たしているべきかを考える必要がありそうです。例えば・・・

 

定義:コミュニティの一員は、以下の条件を満たす。

条件:人を殺すことをしない(自己防衛のための殺人を除く、又、過失による殺人を除く)

 

 

子供「ねえ、なぜ人を殺してはいけないの?」

親「人を殺すとコミュニティのメンバーから外されるからだよ」

子供「コミュニティのメンバーから外されるとどうなるの?」

親「野生動物と同じ扱いになるよ」

子供「動物は人を殺してもいいの?」

親「それは誰も禁じていないよ。ただ、人を殺す動物は、無力化されるだろうね」

子供「ぼくはコミュニティの外にでたくないな、友達とも会いたいし」

親「それなら、絶対に人を殺さないように気をつけなさい」

子供「うん、わかった」

 

こんな感じの教育で、いいんですかね。今、考えてみましたが、やはりどこに線を引くのか、で問題が起こりそうな感じがありますね。

 

線を引くと問題があるなら、線を引かなければいいじゃないか、という発想もありますが、そこを曖昧にしたら、こんどは教育の方針が定まらない・・・

 

うーん、私の勘だと、「教育をあやふやにして、線引きをグレーにぼやかす」ほうが、好ましい形というジャッジになるんですが、

 

実際に「線引きはっきり、教育をカッチリ」とやってみたら、一体どういう問題が起こるのか、試しにやってみるのもいいかもしれません。その情報は、価値のある情報だと思います。