AI利用ガイドライン

ちょっと前のヤフーニュースで、

 

NTTとあともう他一社の研究グループが

 

「現時点では人間にはAIを制御できない」

→厳しめの規制が必要

 

という(あんまり覚えてないので大雑把すぎますが)提言を出したという記事を読みました。

 

SNSは一般に普及して、皆に「拡声器」機能をもたらしましたが、

 

AIは一般に普及すると、皆に「長槍」機能をもたらすものだと思っています。

 

大声で叫び、長い槍をぶんまわす人類が何十億人生まれるということですね。

 

なので、交通整理ができていない状態で普通にAIをリリースすると、

 

「野戦」もしくは「攻略戦」が始まり、被害者も出ることでしょう。

 

そういう意味では、NTT社の「現時点でAIは制御できない」っていうのは、正しくて、

 

そういうリスクを事前に検討して、考えて、警告を出してくれることはとても助かります。専門家の方々、ありがとうございます!

 

私もAIのこととか、ぼんやり考えますけど、

 

影響がとこまで波及するのか、どのくらいのインパクトなのか、副次的に何が起こるのか、

 

とか細かいところまでシミュレーションしませんので、

 

リアル志向で、「一体何が起こりうるのか」を計算する人、できる人はとても貴重なキーパーソンだと思います。

 

AIによる影響の「予測」→「対策」→「実行」のプロセスプログラムが、常駐的に動くような体制を取って頂けると、非常にありがたいです。

 

私もAIを使うことで、被害に遭う、とか道を踏み外す、とかあんまり見たく有りませんので。

 

私の考えとしては、

 

AIは長槍ということなので、

 

「AI使用目的別規制」が良いと思います。

 

例えば、「動画生成」と「政治ジャンル」のカップリングを検知して、

 

「そのカップリングは規制対象ですので、動画データおよび、作成元であるあなた(ユーザー)の個人情報を当局サーバーに送信します。よろしいですか?」

 

みたいなポップアップを出す、とかの抑止規制ですね。

 

そうすれば政治家をモデルにしたフェイク動画は、「作れるんだけど」「作者は警察当局にマークされる」→「お縄にかかる」

 

っていう。

 

なんかの映画とかをAIで作成するときに、「架空の米大統領」とかの役を出したいときもあるので、

 

それはいいでしょうと。実際のリアル政治家のフェイク動画はだめでしょうと。

 

そういう感じで、

 

基本的には、AIを使用するときにユーザー情報登録して、「誰が」「何の画像・動画を生成したのか」について当局が追跡できるようにするのは必要かなぁと思います。

 

こういうことを私が考えているのも、

 

専門家・研究者の方々がAIに対して警鐘を鳴らして頂いたことがきっかけです。

 

みんなで考えて、長槍をエンタメ分野とかでズンズン楽しく突くことができたらいいなぁと思います。

 

おわり

政治を変える方法

自民党政治に不満を持っている人は多いだろうけど、

 

政治って確実・簡単に変わる方法ってのがあって、

 

それは、「自分(だけ)が変わる」ってことなんですよね。

 

「自分(だけ)変わる」×総人口で、確実に政治は変わります。

 

なので、「他人や他の群衆はどうあれ、自分だけはまともになろう」

 

と思って、

 

それを行動に移せば、いいだけです。

 

でも、「自分だけ変わっても」

 

「その力は微弱だし」

 

「権力構造と齟齬が出たら、叩き潰されるリスクがあるし」

 

→「大人しくしとくか・・・」

 

っていう問題があると思います。

 

ここでも、私は「それでも自分だけがまともに前進してたらそれでいいや」と思っています。

 

前提として、「自分の都合のいいように周りが合わせてくれる」とは全く期待してないからです。

 

要は「自分がまともに前進していること」=「自分の問題をこなしていくこと」が最重要であって、

 

もし他の群衆がその流れに沿ったら(時代が自分に追いついたら)、

 

「たまたまラッキーだな」ってだけです。

 

自分の行動の変化ひとつで、「大どんでん返し」を期待するのは無理筋です。

 

「でも、その大どんでん返しを期待してるんだよ!」

 

っていう人もいるかもしれません。

 

そうなのか・・・そりゃ無理筋ですね。

 

ただ、「自分がまともに前進できているなら」

 

周りも、「もしまともに前進するのであれば」

 

確実に行動のハーモニーというか、「協調一致」は現れるので、それほど遠い期待ではないと思います。理論上は。

 

それに、例えば政治が江戸時代スタイルみたいで周回遅れのように見えても、

 

ハーモニーの低音(江戸時代)と高音(令和時代)みたいに、時代を超えて、調和するってあるんです。

 

「あんたら江戸時代は、音が低いな!オレはもっと高音域だぞ!もっと高音域出してよ!」

 

っていう主張って、けっこう的が外れてて、

 

別に周波数が違くても、連携ががっちりハマることは可能です。

 

そういう操作は難しいですけど、

 

理論上は可能なので、

 

低音部隊はよりよい低音を追求してもらって、

 

高音部隊もよりよい高音を追求して、

 

調和を生み出すような、そんな世界観に憧れています。

 

パワーで他を圧倒する方法論ばっかりだと、不調和音になってしまうかもしれません。

 

私は「あなたと私たちは同じ?仲間?」ゲームにはあんまり興味ないので、

 

世代間のギャップを認めつつ、尊重しあって、

 

「いろんな奴がワイワイがやがや」「調和してる」ような感じが好きです。

 

実は、その調和って、常に、すでに実現されているのかもしれませんね。

 

結局、自分が前に進むんで、行動が変われば、

 

おそらく他も動き出す=「調和へ向かう」って成るのだと思います。

 

これは希望的観測かもしれませんが。

 

ということで、私は自民党を応援しています。

 

岸田さんは批判の的ですけど、

 

かなりきつい状況下で、大変そうだな、と陣中見舞い申し上げたいです。

 

調和って、なんか、リラックスして成立する楽しいイメージがありますが、

 

「やばいときこそ調和を」っていうカウンターを入れるべきですね。

 

どれだけ(敵かもしれない)相手を信じられるか、

 

自分を信じられるか

 

っていう勝負だと思います。

 

信じられないのであれば、衝突もアリだと思います。

 

「自分の利を勝ち取るために、都合の悪い相手をたたき伏せよう」っていうんじゃなくて

 

「お前の調和しようとする意思を見せてみろ!」っていう

 

確認のための衝突ですね。

 

こちらが本気でぶつかれば、大抵の場合は相手も本気で応えてくれると思います。

 

逆も然り。

 

同じ衝突でも、背景が異なれば、効果は天と地の差がでます。

 

太平洋戦争は、日本が「死んでもいい」と思ったから、失敗だったと思います。

 

私も「地獄行きでもしょうがない」と思って行動しますので、

 

これは良くないなぁと反省しました。

 

でも、地獄行きでも、がんばって耐える気はある(頓死する気はない)んですけどね。

 

前提として、存在することって、かなりやばいことですので、

 

まぁ自分の力量だと、いつ消されてもしゃあないわなっていう諦観もあります。

 

その諦観の層は100%じゃなく、常にうっすら10%くらいの薄さである感じです。

 

基本は「生き残る」が是で、

 

みんな「生き残りたい」んだから、できるだけ潰し合いはせずに、

 

調和路線を追求した方が私は楽しいです。

 

という特に強い主張もない、徒然なる言葉を垂れ流してみました。

 

次回からまた何かの良いところを褒めようと思います。

 

おわり

Amazon

私の日記は、けっこう破壊的な傾向があるので、

 

「そうだ、とにかく何かを褒める内容の日記なら比較的安全だろう!」

 

と思って、基本的に何かを批判するのではなく、良いところにスポットライトを当てようと思いました。

 

私は英文読み込みの趣味をチコチコ続けているのですが、

 

その教材として、アマゾンの電子書籍読み放題の「Kindle Unlimited」(月額980円)を(まずは1ヶ月分だけ)利用しています。

 

指定の電子書籍のみ、読み放題なのですが、

 

英文読解の本が、かなり充実していて、とても満足しています。

 

最初は英文の小説にあたってみたのですけど、和訳がついてないので、

 

最初は、和訳付きの「短編小説集」や、「英文集100選」とかから始めています。

 

わからない単語がある→辞書を引く

 

を繰り返しているので、こういう教材はとても助かります。

 

私は、学生時代にセンター試験で英語120/200点くらいの学力しかないのですが、

 

意外と知らない単語でも「この単語(や言い回し)見たことあるなぁ」と、うっすら覚えていて、

 

英文を読み込みながら、新しい単語の意味に触れたりして、「フロンティアを開拓してるなぁ」という驚きと喜びを実感しています。

 

無職になってから、「苦手なこと」にもチコチコチャレンジしていてわかったのですが、

 

自分が苦手な分野を進むに当たっては、

 

「最初は超スロー」っていうのは鉄則のようです。

 

最初から、スムーズにどんどん上達できたら、楽しいと思いますが、

 

初級者から始めた場合は、必ず、遅行運転になります。

 

「一歩ずつ」どころか「半歩ずつ」くらいのイメージです。

 

で、そのスタートダッシュの停滞期を、焦らず、コツコツと継続していると、

 

知ってる単語が増えてきて、

 

「あっこの単語(言い回し)、前に覚えたやつだ!」

 

となってくると思います。

 

そうなってくると、学習習熟度の曲線グラフ(横軸:時間 縦軸:習熟度)が、

 

底辺を這っている状態から、ググッと、上昇傾向に乗ってくる感じです。

 

それはトラック運転ゲームの練習で、体感しました。

 

最初は下手でも、ある一定の技術がついてきたら、上手くできて楽しくなってきて、どんどん上達する、みたいな展開です。

 

最初からその体(予定)でやっていれば、

 

挫折を回避しやすいと思います。

 

そういう意味では、初学段階においては、

 

「いかに良好な学習環境を作るか?」ってことが重要になってくると思います。

 

私の英語読み込みの場合は、

 

・難しすぎない、ちょうど良い難易度の英文に当たる

・正解の和訳が付いている英文を読む

・短い多彩な文章を、数多く読み込む

・英和辞書を用意する

 

っていう環境づくりをしました。

 

まだ結果はでていないのですけど、

 

「上手くできなくて停滞している分」疲れも溜まりやすいので、

 

できるだけスムーズに、負荷が少ないように、半歩ずつ歩み続けられる環境作りって

 

大事だなぁと思います。

 

そういう意味で「Amazon Kindle Unlimited」は、月額980円で十分にお買い得な、良サービスだと思います。

 

Amazonの良いところは、「充実した品揃え」と「商品の一覧性が高い」点だと思います。

 

色んな商品の中から商品を選ぶので、お客が自分にマッチした商品に「たどり着きやすく」、購買意欲や、満足度に繋がっていると思います。

 

こういう点は、ITの優位性を、うまく活用できてる理想的な「物の売り方」だなぁと思い、この世にAmazonがあることに感謝しました。

 

Amazonが提供してくれている英文読み込みの良環境によって、

 

英語が上達したら、そのことを日記で周知して、「こんなにAmazonnに助けられました!」と報告しようと思います。

 

ここまで書くと、Amazonの手先みたいになっていますが、

 

消費者として、誇張なしの本心からそう思います。

 

こういう良企業のおかげで、英語学習だけではなく、「あらゆる趣味にとっつきやすくなってる」側面はあると思います。

 

もしよかったら、「今までやったことのない趣味」を見いだしてみてはいかがでしょうか?

 

楽しくステップアップする体験はプライスレスです。

 

Amazon、イイネ!

包括路線でがんじがらめ

包括的な方法論を、極限まで研ぎ澄まそうとすると、

 

「メンバー全員すべて把握している」状態が維持され、

 

その枠内で、「任意の目的を達する」ようなカラクリが発動されます。

 

そのいろいろな在り方によって、

 

地獄があったり、不平等があったり、暴力的な破壊があったりします。

 

で、「メンバー全員すべて把握している」といっても、

 

そこに変数があると(=把握しきれない要素があると)、

 

「どうなってんのコレ~!」という脅威が出現したりして、

 

色んな複雑だったり強力だったりする操作が必要になり、

 

手持ちのカードがべらぼうに多彩になっていったりします。

 

そういう意味では、

 

「なんかめっちゃ複雑で、大海を操船術で上手くやってる(あるいは上手くやってない)ように見えるけど」

 

「実際は、大きな流れに誰も逆らえない」

 

ある意味「決定論的である」と言える状況になっています。

 

なるほど~つまり、「どうあがこうと無駄」と「がんばればなんとかなる」が同時に両立する世界観ですね。

 

決定論的な世界」を眼前に捉えて、何らかの解釈する「私」や「あなた」も、その枠内から逃れられていない、ということです。

 

ただ、唯一の救いは、

 

その「決定論的な包括領域」は、固定じゃないってことです。

 

ガワ(側)・形式は固定だけど、背景・中身が固定じゃない。

 

なんらかの影響(出所不明の脅威or恵み)が常にやってきている。

 

だ~か~ら~こ~そ~

 

形式にこだわってもしょうも無いと、私は思います。

 

ただ「お前ら全員、形式にこだわるなよ!」と言っているわけではありません。

 

これについて、「誰かが」「どう思っても」それに口出しはしませんが、

 

私は、「形式なんて蝉の幼虫の抜け殻だろうが!」と思っている、という声明発表です。

 

幼虫あってこその、抜け殻なので、

 

幼虫がそう在るならば、形式の「抜け殻」はこうなるよね、

 

あるいは

 

「抜け殻」はこうなら、幼虫はそう在ったんだね、と言えるだけであって、

 

「この抜け殻」にフィットするような幼虫であれよ!っていうのは

 

明らかに時系列的な順序が狂ってます。

 

つまりは

 

「前と同じような幼虫であれよ!」ってことなんですけど、

 

私は時系列的には一人称視点しか持っておらず、俯瞰できていない者なので、こう言っているのですが、

 

包括的世界自体が「なんちゃって包括」であること、

 

つまり、「何も無いところからの影響」は有るって知ってるので、

 

そんなに視野狭窄な考えでもないぞ、と思っています。

 

この日記、自分で書いてても、読んで意味伝わるような表現になってないな(わかりにくい不親切な表現だな)と思いますが、

 

わざとわかりにくく書いてるんじゃなくて、

 

扱う対象が抽象的すぎて、具体例が地球上に無いので、こういう書き方になっています。

 

つまり「なんか(意味不明なこと)ゆってんな」と思ってもらっていいです。

 

でも、これってとても重要なことなので、

 

とりあえず日記に書いています。

 

ふんわりした感じで、お送りしました。

 

おわり

元鞘風の流れ

前回、「やりません」宣言、

 

「関係を切断したいです、離れてください、さようなら」の意思を出したところ、

 

けっこうゴタゴタゴタゴタしたのですが、

 

「関係を切る」操作、もしくは、

 

「地球の物質すべて解消」操作の希望を出しても、

 

「すぐにはできない」ようなので、

 

どういうカラクリなのか詳細は私にはわかりませんが、

 

とりあえず、長いスパンで「自分という存在」を捉えた方が良いようなので、

 

一旦、「決別宣言」したあとに、「やっぱり協調路線を維持します~」ということになりました。

 

「元鞘」ですね。

 

ただ、先方は「なんでコイツ(私)の要求に振り回されなきゃいかんのだ」という禍根があるかもしれないですが、

 

禍根があろうとなかろうと、

 

関係切りたいときは「離れて見えなくなって消えてください」と率直に言うし、

 

「組めない」のであれば「組みません」といいますし、

 

ただ、あるがままにあるだけってことなので、

 

「禍根があるから、しこたま攻撃しよう」でもご自由になさってください、というスタンスで、

 

とりあえず、協調して、みんなが上手くいくように

 

穴にならないように、がんばるか~と思い直しました。

 

「はぁ、物質はやく無くならねーかな」とか思いながら、

 

できることをチコチコやろうと思います。

 

お騒がせして済みませんでした。

 

おわり

やらない宣言

前回の日記で「主体性の意味」は、「やる、やらない」の意思表示による仕分けの効率化だと書きました。

 

で、私は「やります」だったのですけど、

 

総合的に考えて、結局「やらない」ことにしました。

 

何をやらないかというと、大きな流れに歩調を合わせて、協力することをやらないということです。

 

「さよなら~嫌なので離れてください」ですね。

 

ただ、この世界は「塵ひとつ逃さない」仕様になっていますので、

 

地球あるいはもっと大きな括りのグループから抜けることができたとしても、

 

別の(もっと質の悪い)別グループに取り込まれて、苦労するかも知れません。

 

グループの総数は不明ですが、100あろうが1000あろうが、

 

とりあえず「見」をして、もし「このグループ面白いな」とか「魅力があるな」と思ったら投資しようと思います。

 

地球を含むグループには魅力を感じません。

 

・やってること

・やり方

・創り出したもの

 

それらはへぼいとは思いませんが、単純に「趣味が合いません」

 

よって、協力も「やりません」。

 

特に、「物質世界」が気に入らなくて、

 

こんな牢獄みたいな環境から抜け出したいなと最初から思っていました。

 

まぁ、また物質世界みたいな環境に放り込まれるかもしれませんが、

 

居残る動機もないので、さっさと退場したいと思います。

 

さようなら、

 

人間として死ぬまでは、適当に過ごしたいと思います。

 

-すべてはあるがままにありー

 

おわり

主体性-やる・やらないの意味

今回は「主体性-やる・やらないの意味」というコラムです。

 

私の生きてる環境では、「主体性がない」人ってけっこう見るんですけど、

 

一方で、「主体性を持つことが大事だ」っていう言説もありますよね。

 

で、「なんで主体性が大事なのか」という意味の解像度を上げる目的でこれを書いています。

 

まず、人は何かの行動の「やる/やらない」決めるとき、

 

・これは得だから「やる」とか

・これをやると危ないから「やらない」とか

・やりたいけど、失敗しそうだから「やらない」とか

・やりたくないけど、やらないと攻撃されるから「やってるふりをする」とか

 

いろいろあると思いますが、

 

これらって、ニュートラルな立場であるなら、どうしようと自由なんですよ。

 

降りかかる火の粉を払おうと、払うまいと、他人におっかぶせようと、自由です。

 

ただ、この日記の文脈上の注目ポイントは、

 

「その判断って、全部あなた基準だよね」ってことです。

 

「あなた基準」とは「世界はわたしのためにある」ってことです。

 

私は、けっこう自己中ですけど、「世界はわたしのためにある」とは露ほども思ってないです。

 

だって、「気づいたら地球に放り込まれて生きてた」だけで、

 

むしろ

 

「なんでこんな一方的に生きることを強制されてんの?」

 

「誰がこれ仕掛けてんの?」

 

「地球環境どころか、自分の身体さえ、私はレシピも知らないし、作れないよ」

 

「なにこれ?」

 

って感じなんですよ。おそらく生きてる人は、同じ感覚でしょう。

 

で、この状況下で、

 

「世界はわたしのためにある」って、発想しにくいですよね。

 

要するに、生きてる環境が辛すぎて、売上げ立てるために「世界はわたしのためにある」って思わなきゃ「しのげない」「やってられない」ってことですよね。

 

で、ここで主体性の重要性が出てくるんですけど、

 

「なんか他者都合で、一方的に生きることを強制されているようだ」という認識があって、

 

「じゃあこの生にどういう意味があるのかっていうと」

 

私の思い込んでる答えは、「なんか、機能性を求められているんだなぁ」ってことです。

 

例えば「人間」と「洗濯機(の部品)」の関係のような。

 

「人間が一方的に洗濯機を使役して、洗濯機はがんばって動く」

 

そしたら「人間」は「うれしい」ですよね。服(洗濯物)が清潔になるから。

 

一方、洗濯機は、「ハァ、ハァ!きっついな~」って感じですよね。

 

一応、コンセントから電気の「パワー」はもらっているけど、きついもんはきつい。

 

ここでのポイントは、「わたし」は「使われる側」ってことです。

 

使われて、機能を生むことによって、生かされている。

 

だから「世界はわたしのためにある」じゃないんですよ。私の想像上では、ですよ?

 

で、洗濯機側が常に求められることがあるんです。

 

それは「ちゃんと動くの?どうなの?」ていう問いに対して答えるということです。

 

「きみは動くの?動かないの?」

 

「どうするの?」っていう使用者からの問いが、ずっと絶え間なく、永遠に投げかけられているんです。

 

そのエブリディ、エブリタイムの問いに対して、

 

「やります」又は、「やりません」っていう情報を明確にすることが

 

「主体性」の重要な意味ってことです。

 

「やります、でも、できません」

 

でもいいんですよ。「やるってことなんだから」。

 

「できないけど、やります」

 

「かなりきつくて、本心は死ぬほどやりたくないですけど、やります」

 

「上手くいったらメリットありそうなので、やります」

 

「あなた主体の前置き」は、使用者にとってはどうでもいいことです。

 

「お前は、やるのか?やらないのか?」「どっちなんだい?」っていう

 

ことに対して、あなたという「窓口」が、きちんと応対しなきゃいけないってことです。

 

で、その「やる」「やらない」の意志は、実際の「行動」によって示すという流れです。

 

「やります」って答えといて、「逃げまくってる」っていう「嘘」は、混乱を招くだけですよ。

 

そういう嘘ついても「こいつ機能してないな」って使用者は思うだけです。「この洗濯機、壊れかけてんな」って。

 

だから、「主体性」が大事なんです。

 

ちゃんと自分(洗濯機)の窓口としての機能ですね。

 

だから主体性を持って、「わたしはこれをやります」というのが大事なんです。

 

もちろん「やりません」でも全く問題はありません。

 

使用者は「あ、あなたやらないのね、はいわかりました」って言って、

 

あたなを消去するか、別の機能を期待するか、ってだけですから。

 

基本的に、存在っていう概念でいうと、

 

「使用される側は」

 

「やります」を言い続けた者のみ、存在し続けるってことになります。

 

でも

 

「そもそも、わたしは存在させてくれって頼んだ覚えは無いから」

 

「消えてもいいよ」

 

「わたしはやりません」

 

っていうのでも、全く問題ないんですよ。

 

「やらない」ってはっきりするから。

 

使用者は「それなら、こうだな」って操作するだけです。

 

で、私は「洗濯機やります」って言い続けてるんですよ。

 

しんどいのは嫌だけど、「やるかやらないか」で言うと「やる」ですね。

 

十年後も「やる」と言ってるかどうかわからないですけど。

 

そういうことなので

 

「主体性を持ったら、責任おっかぶされて苦しむからやだなぁ」とかいろいろ事情はあるかもしれませんが、

 

どういう知恵を回そうといいんですけど、

 

「やる」のか「やらないのか」

 

常にはっきりしといた方が、洗濯機としては正常動作ですねってことです。

 

ご参考になれば幸いです。

 

おわり