矛盾・対立項領域における最適な操作

今回のテーマは「矛盾・対立項領域における最適な操作」です。

 

なんか、小論文っぽい感じがしますが、内容的にも小論文的なことを書いていきます。

 

①前提-「矛盾」とは?

まず、基礎知識として、「矛盾」とか「利害対立関係」とか、見渡せばよく見つけられるものですけど、

 

簡単に言うと「綱引き」ですね。

 

物理的には、例えば車の「アクセル」と「ブレーキ」みたいな。

 

政治でいうと「支配側」と「被支配側」の利害対立関係とか。

 

これらって、「あるがままに対立してんな」って見えるものですけど、

 

実は、「矛盾」って、「妙な角度からの視点じゃないと」「存在できない」ものなのです。

 

本当のあるがまま、とは「一直線」です。あるいは曲がっててもいいのですけど、「1本の長いホース」みたいなものです。

 

そのホースをグルッと曲げて、ホースの両端が「同じ面」に接するような角度で見たときに限り、「矛盾してんな」という見え方が実現するということです。

 

要は、「矛盾」を見てる時点で、かなり穿った見方をしているということです。

 

「この世界には矛盾がありふれている」そう見えるということは、たくさんのホースを曲げまくって、妙な見方をすることが「普通」ってことになっている(そう思い込んでいる)ってことです。

 

なので、例えば政府の緊縮財政と、金融緩和策を同時にやることを指して、

 

「アクセルとブレーキを同時に踏んでいる」→「これは無意味だ、間違っている」

 

という批判を見ることがありますが、これは穿った見方です。

 

「アクセルとブレーキ同時押し」の意味っていうのは、何なのかっていうと、

 

ホースの両端を掴んで、ビヨーンと伸ばす意味があるのです。

 

「綱引きを一生懸命がんばる」ってことですね。

 

やばいときに、綱引きを一生懸命がんばるっていうのは普通のことです。

 

事業のスケールアップをすることによって、特定の問題を矮小化させる意味があります。

 

例えば、走っている人が「運動オンチ」であって、

 

かつ、「速く走らなければならない」というケースにおいては、どうすればいいと思うでしょうか?

 

それは、その走っている人を、スケールアップして、ウルトラマンくらいの身長になればいいのです。

 

そうすれば「運動オンチの巨人」が「速く走れます」。

 

要は、アクセルとブレーキ同時押しは、「がんばろうね」ってことです。

 

逆に、「緊縮財政と金融緩和を同時にやるのは無意味だ」っていうのは、実は、

 

「がんばりたくない」ってことなんです。少なくとも、スケールアップはしたくない。

 

「こじんまりと、楽したい」そういう気持ちの吐露です。政府批判の舌鋒は鋭いですけど、実はなかなか根性がへたってきていることの現れというわけですね。

 

②長いホースの扱い方

前述①において、「矛盾とは長いホースの両端の面を平面的に見ることである」「そして両端を引っ張る綱引きが常に起こっている」ということを書きました。

 

じゃあ、その綱引きの「How to do」どのような操作が最適なのかという「扱い方」を述べます。

 

まず、ホースの両端を「ウクライナ」と「ロシア」だとします。この両者はガチガチの利害対立関係にありますね。

 

で、「端っこA」(ロシア)が、綱引きで優位になっているとします。Aの方がビヨーンと伸びて原点から前進している状態。

 

そうなってくると、「もし綱引きに負けないようにするためには」「端っこB(ウクライナ)を、今よりも強く引っ張る必要が出てきます。

 

もし端っこAが伸びまくって、端っこBが原点に近づいていって、原点との距離がマイナスになったときが、「ロシアがウクライナを飲み込んだ時」で「試合終了」です。

 

そうなって困る場合は、Aに負けない力で、Bを引っ張る必要があります。これが対立項。矛盾間の綱引きゲームの普通の操作です。

 

だから、日本含む西側陣営は、ガンガンBを引っ張ればいいのですが、

 

ここで問題があります。

 

①でも述べましたが、両端A・Bを同時に引っ張ると、スケールアップしてしまうんです。

 

つまり、ロシア対ウクライナ戦争が過熱して、良い勝負すればするほど、「人類の事業規模がどんどんスケールアップしていく」ということになります。

 

これが何が問題かというと、

 

スケールアップする側面が、ロシアとウクライナの「戦争・殺し合い」ジャンルだということです。

 

「戦争なんて、しょうもないよね、ない方がいいよね」

 

「昔の世界大戦や、それ以降の紛争を経験した私たちは、それを心底くだらないと思っている」

 

っていう状況ならば、その部署はスケールアップなんてしない方がいいのです。

 

ここで重要なことですが、そのケース(綱引きに負けたくないけど、そのジャンルの引っ張り合いが過熱してスケールアップするのも避けたい)においては、

 

負けてる端っこBの方を、「あんまり強く引っ張らなくて良い」が正解になります。

 

最低限、原点からの距離がマイナスになって飲み込まれなければ良い。

 

つまり、「ウクライナに対して、ガンガン軍事兵器送らなくてもいい」ってことになります。

 

もっとも重要な操作は、「強く引っ張っている端っこA側のテンションを」「緩める」ということです。Aの方を「叩く」と言っても良いです。

 

だから、結論としては、

 

ウクライナ戦争の綱引きにおける理想的な(目的に適った)操作は、

 

・ロシアを叩いて、有利を打ち消すようなアクション(NATOからの攻撃など)が最優先

ウクライナに対しては、戦線維持できる程度の軍事支援でOK

 

というものになります。

 

これは、男性対女性の関係にも同じ事が言えて、

 

例えば端っこAが「男性」で、その男性が「DV(ドメスティックバイオレンス)男」

だったとします。

 

一方、端っこBの「女性」は、暴力を受けて、綱引きに負けそうになっているとします。

 

この時、ついつい、「女性への保護・サポート」を厚くしよう、って操作になりがちです。

 

実は、私もこの発想を持っていました。

 

「弱っている人を、助けよう」「カウンターを入れて、バランス均衡を作り出そう」っていう発想です。

 

でも、これは最適ではないです。最悪ではないですが、へぼい操作です。

 

そもそも、「そんなひどいDV男との関係なんて」解消した方がいいじゃないですか。

 

男は他にもいるんだし。無理してその綱引きする必要はない。

 

だから、これもウクライナ戦争の例と同じですけど、

 

最適操作は、

 

・DV男の有利を打ち消すようなアクション(警察に被害届を出すとか)、DV男叩きによる無力化が最優先

・女性側へのテコ入れについては、「身体に危険が及ばない程度」が達成されればOK

 

となります。

 

女性を守るとゆうよりも、悪い男を叩いて大人しくさせるのが良いってことですね。

 

そうすれば、端っこB(女性)がWINで、綱引きは試合終了(2人は別れる)となり、これが一番理想的です。

 

(まとめ)

どうでしょうか?小論文っぽかったですね!

 

私も自分のミスに気づけてよかったです。また1歩前進できました。

 

対立を終わらせるには、また新たな対立(有利な方VS部外者)の対立が必要ってことです。

 

世の中には、「しょうもない対立・矛盾」がありふれてますので、

 

終わらせるべきものは、速やかに試合終了にした方がいいですね。

 

他方、「きついけど、通らなければいけない対立」というものもありますので、

 

その時は、スケールアップして(綱引きがんばって)、問題を矮小化させる方向に向かった方が、全体としては前進幅が大きいですね。

 

今の地球においては、

 

あんまりスケールアップしない方がいい面があるので、

 

「大量生産・大量消費のやりすぎ(有利になりすぎ)があるのならば」「地球を叩く」そういう操作が最適になりえます。

 

私は叩かれたくないので、自分で自制しようと思います。

 

上手く自制できるかどうかはわかりませんが、とりあえずその方向で。

 

おわり

 

安定志向-不動の概念

今回のテーマは「不動の概念」ということで、

 

安定志向の意志決定のメソッドを書こうと思います。

 

これは私流なので、参考になるかならないか程度の情報です。

 

まず、前提として「世界は安定を望んでいるように」見えます。

 

「再現性」とかも、「こうしたら→こうなる」の安定性の側面があります。

 

もしも安定している「柱」があれば、それにしがみつくことで自己の保全が担保されるから価値が高いということになっています。

 

一般的な人は、幸せに「加速度」を求めがちですので、安定とは原理的に逆行しています。

 

一方、私は「幸せの加速度」ノーサンキュー派ですので、そこの前提がズレていますので、よって、この日記に書くことは参考になるかならないか程度の情報ということです。

 

じゃあ「安定」ってどうゆうこと?って言うと、

 

内部的には「常に平常心」で、

 

外部的には「行動パターンがブレない」てことです。

 

例えば、「タイタニック号が大破して沈没しかけてるぞ」っていう状況下においては、

 

普通の人は「ワー!キャー!」叫んで、

 

内部的にはパニックの嵐です。そして、

 

外部的には「人混みを押し分けて全力でダッシュする」みたいに、これまたいつもと違うパターンの行動が見られます。

 

こういう人は、「安定してないね」という評価になります。

 

それは前提如何に依って、ネガティブな意味にも、ポジティブな意味にもなりえますが、この日記において限ると、ネガティブな意味での評価としています。

 

じゃあ「安定してる人」ってどういうのかというと、

 

まず、「立ち止まって」「最も成功確率の高い、逃走経路を考えるんです」

 

内部的には、恐怖もあると思いますが、その感情は「とりあえず横に置いて」おきます。

 

感情のケアは優先度が低いからです。それよりも、生命の保全が優先です。

 

外部的には、「最も優れた逃走経路を特定して、周りのパニック群衆の動きを見極めながら、安全にそこへ向かう」をします。

 

この両者の差はなんなのかっていうと、

 

「両者が注意を向けてフォーカスしている対象」が「違う」ということです。

 

普通の人は、常に「内部」と「外部」に注意を向けています。

 

・「内部が乱れているのは」「外部のせいだ」→「外部を操作しなきゃならん」

・「外部の操作を誤ったのは」「内部のせいだ」→「内部を常に豊かにしなきゃならん」

 

といった具合に。

 

内部⇔外部の相互の情報のやり取りの場において、幸せになるための「内部」「外部」両方の理想形・最高形を目指すといった、人間らしい「欲深い」志向です。

 

ちなみに「欲深い」ことへの批判ではないですよ?人間は「欲深の係り」らしいですから、それは素直で優れていることなんだと思います。

 

一方、私は「外部」にしか注意を向けません。タイタニック号沈没のようなデッドオアアライブ環境では特にです。(最近は、日常では内部に注意を向けるように変化を促していますが)

 

「生き残る」という観点でいうと、「外部」のみに注意を向けた方が、意志決定の精度が上がります。

 

なぜかというと、

 

「内部」がどれだけ激しい嵐であっても、「人間は死に至らない」ことを知っているからです。

 

タイタニック号の例で言うと、

 

タイタニック号が沈没しかかっている」ということは外部の不動の事実です。

 

そして、その不動の事実が、「生死と関わっている情報である」ということになります。

 

その外部の動きを見て、「パニックになろうが」「平常心であろうが」

 

内部がどうであれ、「外部状況(船が沈みかけて危ないということ)には、変化は全くない」ということです。

 

だから、この場合は、内部は無視してもいいのです。

 

もしも内部を無視しなかったら、

 

例えば「恐れがMAXになり、救命ボートに我先に乗り込もうとする余り、他の客を突き飛ばしてしまった」

 

という行動(外部への操作)が発生します。

 

これは、ある意味、「内部の情報がきちんと外部へ伝わった」という現象で、正常な働きである、とも言えますが、

 

「安定志向」の観点でいうと、めちゃくちゃ混乱を招く行為でマイナスですね。

 

「内部なんて今はどうでもいい、生き残ることが最優先だ」

 

「そのためには外部の状況を正確に把握せねばならん」

 

「外部の状況を把握したら、最も適切な行動(外部の操作)を行わねばならん」

 

っていう冷静な対応が可能になります。

 

その際、「実は心臓がバックンバックン、恐怖を感じているかもしれませんが」

 

「その内部は今は無視して良い」という確信があるために、

 

「とりあえずその感情は横に置いておく」という操作が可能になります。

 

ただ、若い頃、これをやりすぎた私は、感情が乏しくなってしまったので、程度問題でもあるのですが、

 

「普段から内部・外部の最高形を追求する、幸せの加速度を求める」ような

 

まるで欲望の形が「三階建ての年金」みたいな構造になっていると、

 

いざ危機的状況に陥ったときに、慌ててミスるのは必然ですねってことになります。

 

私は安定志向で、

 

「とりあえず身体が生きてれば(生き残れさえすれば)、人生どうにでもなるよね」という

 

一階建ての国民年金みたいな欲望の形ですので、

 

「難易度低いし、安定性のメリットを享受して、操作も精度が高くできる」というアドバンテージを得ることができます。

 

でも、年金が三階建てじゃないので、そんなに上昇気流のようなハッピーとは無縁です。

 

一長一短、どっちでも良いと思いますが、

 

できれば他の人も混乱を積極的に作り出すのはやめてほしいなぁと個人的に思います。

 

おわり

なぞのコピー波動

日本は明治維新前からすでに、西洋列強の植民地になることを恐れて、国力(経済力・軍事力)をアップさせようというムーブメントがありましたが、

 

実際にやったのは、たぶん恐ろしい列強のコピーなんですよね。

 

外国に「勝とう」ではなくて、

 

「肩を並べよう」っていう、高望みしないスタイル。

 

中間目標というのは、トータルデザイン(総合的戦略)の上に、成り立つものですから、

 

当時の日本の総合的戦略っていうのは、「西洋が乗ってるレールに乗ろう」っていう、オリジナリティがあんまりない、「やる気のない」戦略の選択に見えます。

 

「だって、日本は死ぬほど貧乏なんだから、そんなに高い目標持つのは無謀じゃん」っていう発想がありえると思いますが、

 

「戦略」の文脈での目標っていうのは「無理かどうか」「実現が現実的かどうか」っていう話の「以前」に決まるものなんです。

 

例えば私で言うと、

 

「世界の一番外側を確認する」を中間目標にしているんです。

 

これは、不完全ながら達成されているので、クリアしています。

 

で、人間として地球環境において、「世界の一番外側を確認する」って、無理じゃないですか。

 

できるわけがない。

 

できるわけないけど、なぜその無理な目標を設定したかというと、

 

「情報を獲ったり、操ったりして、戦う」という戦略を選択していたからです。

 

できるできない以前に、

 

「この戦略でGOしてる以上」

 

「条件『世界の一番外側を確認する』を満たさなければ、お話にならない」

 

っていう状況下において、中間目標が決まってくるわけです。

 

で、日本帝国の例に戻ると、

 

中間目標は「西洋が乗ってるレールに自分も乗ろう」ですよね。

 

これってどういう戦略かっていうと、

 

「コピー」です。

 

例えば、「猿さん」が、リンゴをたくさん獲ることができている。

 

それを見た「犬さん」が、こう思う。

 

「猿さんのマネをすれば、じぶんもたくさんのリンゴにありつけそうだぞ」

 

っていう。

 

これって、なんか合理的なようで、実は問題があるんです。

 

「じゃあ仮に」「猿さんのマネをして、犬さんがリンゴにありつけました」

 

としましょう。

 

「で、その後、犬さんはどうするの?」という問題が出てきます。

 

猿さんのマネを、ずっと続けるんでしょうか?

 

「猿さんが仲間のノミを掃除してあげてたら」

 

「犬さんも、仲間のノミ掃除を始めるんですか?」

 

「お前、犬なのに?」

 

っていう

 

犬さんが猿さんのマネするっつっても、「お前猿になりたいんか?」ってなりますよね。

 

これって戦略として、へぼすぎるんですよ。時間経過に耐えられない。

 

だから日本帝国も、やるべきことは

 

「西洋がどうだろうか日本には関係ねぇよ」

 

「日本がどういう戦略取っていくのか、どうしたいのか、それが問題なんだ」

 

というスタートラインに着くことが正着になります。

 

「日本ならではの戦略」ですね。

 

だって、西洋人と、考え方かなり違うし、日本の村社会とか、明らかに自由がないじゃないですか。

 

犬さんが猿さんマネして、どうすんのって思います。

 

当時の日本人が「自分たち『犬』は劣っているんだ、『猿』が正解なんだ」っていう発想を持っていたかも知れないですね。

 

これは自己否定、つまりは自殺です。

 

自分たちの遺伝子を信じ切れてなかった、だから他人種のコピーに走った。

 

これじゃあ、「西洋の動き」関係なく、勝てませんねってなるのです。

 

「西洋が牙向いて襲ってくるから、危機だ」

 

じゃなくて、

 

「一旦その恐怖の対象を、『ただの置物』だと思って」、自国単体で、地球環境で生き抜くにはどうすればいいのか?っていう戦略が必要なんです。

 

何も戦略がないまま、謎のマネマネ競争を走り出すんじゃ無くて、

 

戦略きっちり選んでから、スタートラインにつく、その手順を丁寧に踏んだ方がいいですね。

 

なぜかというと「自滅」してるようでは、お話にならない、スタートラインに着ける状態ではないからです。

 

きっちり競争にエントリー申し込んで、参加できる状況に持って行ってから、

 

スタートラインに着く、そんで競争が始まるっていうゲームです。

 

まぁそもそも

 

人間の生でさえも、「気づいたら少年少女だった」「何の準備もなくすでにスタートの号砲が鳴った後だった」

 

っていう状況なので、

 

正しい手順を踏めないっていうのはありえます。無理は無いですね。

 

この日記の情報私が出して、見た人はどうするのか、それはご自由ですけど、

 

私は、戦略なしでは、まったく戦えません。

 

戦略なしで、いけるケースもあるかもしれませんが、けっこう厳しいと思います。

 

野生動物だって、皆それぞれ生存戦略を持っています。

 

環境に適合できたら、その種は生き残る。適合できなければ、消えてしまう。

 

私も、もし原点が「消えてもいい」だと、生存競争がんばれないかもしれません。

 

おわり

戸塚さん

YOUTUBEのAbema切り抜きで、戸塚ヨットスクールの首領である戸塚さんという方が出演されていました。

 

なんかスクールに入ってきた不良少年とかを暴力で躾けて、過去には死亡事故も起こしているような、一般的には「やばい人」のようです。

 

ただ、このおじいちゃん面白いな、と思いました。

 

ちゃんと自分の頭で意見を言ってますからね。レアです。

 

議論のテーマは「権利と自由」についてで、

 

戸塚さん曰く、

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「権利」という言葉は、明治時代になって初めて渡来してきた言葉(right)であるが、

 

当時、日本には「right」に該当する概念がなく、訳に苦慮したという背景がある。

 

福沢諭吉(天才)は、「権利」という訳は、適切ではなく、「権理通義」と表現した。

 

つまり、「権利」を子供の時から与えていくと、自己の利権を抑制なく要求するようになり、権力構造がきしんでしまうことを戸塚さんは憂慮している。

 

子供や、大人でさえも、ほいほいと「権利」や「自由」を与えるべきではない。

 

「権利」や「自由」とは、勝ち取って得るものであり、一部の特権・上流階級の人間のみが有するものでなければいけない。

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なるほど、内容の可否はともかく、話の筋としては通ってますね。

 

ツイッターでこの動画を見たのですけど、コメント欄には「老害」とか「独裁者」、あとは、「言ってることは正論」という意見もチラホラありました。

 

まず、戸塚さんは、「老害」ってわけじゃなく、私は「なんか暴力志向の個人(現在、歳を取っている)」って感じに見えましたね。

 

つまり、この人はおそらく、若いときも今と同じような考えで生きていただろうと思うからです。文脈では「老人」というファクターは薄い。

 

この人は、私が最近注目してる「対面方式での勝負・競争」嗜好家なんだろうな、と思います。

 

「あなたを暴力で苦しめて、わたしが幸せになる」方法論の愛用家ということです。

 

そういう方法論は、常に「潰し合い」ですから、基本的にハードです。

 

だから、その潰し合いに勝った「権力者」は、「ご褒美が無いと」ゲームとして成立しない、ご褒美のあるゲームであって欲しい、そうじゃないと自分が救われないって感じなんだと思います。

 

だからこそ、「権利」や「自由」は、権力者のみが有するボーナスであって、

 

「潰し合い」に負けてる平民なんかに、配布するようなもんじゃない。

→勝っていない者(子供や負けてる大人)は、「黙っていろ」

 

偽物のリベラルが、「権利」や「自由」を安売りしようとしているが、

 

それがまかり通ったら、「自分の努力や苦しみが、『無駄・愚行』になってしまうではないか」

 

って感じなんでしょう。

 

これは、おそらくフェアな意見ですね。普通の人間なら、共感できると思います。

 

普通の人間が戸塚さんに共感できない点は、やはり、

 

「世の中潰し合いゲームだ」という前提を持っている点ですね。

 

その暴力的な手段でしか幸せになれないんだ、という思い込み。

 

この前提が不一致だから、「戸塚のおじいちゃんは危険思考の老害だ」ってことになってしまう。

 

ただ、私の解釈では、前に述べたように、「前提が一致していないだけで、そのロジックは普通の人間でも理解できる」ような意見だと思います。

 

理想を言えば、「方法論縛り」のゲームにのめり込みすぎないで、

 

「今の状況を正確に把握して」

「バランス感覚を持って」

「複数の方法論(カード)を引き出しから出し入れして」

「行動する」

 

っていうのが、ハエスタイルの私目線での理想ですけど、

 

みんながみんなハエじゃないので、

 

「方法論縛り」で「ずっと同じ事を繰り返したい」という制限(願い)を持っている人も、いるだろうな、

 

その人は、そんな臨機応変に動けない(変化できない)だろうな、と思います。

 

要は、「みんな幸せになりたい」っていうのは一致してると思うので、

 

戸塚さんを後ろ足で蹴って排除する、っていうのではなく、

 

「あなたもひとりの人間なんだよね」ってとこから始まって、

 

じゃあ、どうやって方法論の濃淡をデザインして制御していこうか?

 

その最適解を一緒に模索していきましょう。

 

っていうやさしい世界が私は好きです。

 

やさしい世界ていうか、「あんまり一部エリアの内輪もめ」で、消耗してほしくないなっていうのが本音です。

 

もっと効率的にやるようにすれば、確実に全体にとってベネフィットになります。

 

効率化によるベネフィットって目に見えにくいですけど、

 

世界をシステムと見る解釈においては、かなり急所ですよ。

 

コミュニケーションのすれちがいでイライラを募らせるのは避けて、

 

みんなの幸せ追求の効率化を研ぎ澄ませる(一部の人間の嗜好に合わせる、ではない)っていうのを

 

もっと楽しく、できたらいいなと思います。

 

おわり

広告業

最近、ツイッターの広告(目的)のツイートの表示頻度が増えてるような気がします。

 

多分、会社の経営がピンチであるために、広告主への優遇で集客&売り上げアップしようとしているんでしょうけど、

 

そもそも

 

私って、広告ってビジネスモデルが好きじゃないんですよね。

 

だって、これだけITが発達しているのに、

 

個人が「市場に出てる商品ALL一覧」の情報を手に入れることができないって、おかしくないですか?

 

おかしいっていうのは「効率が悪すぎる」ってことです。

 

ウィキペディアがあるなら、「商品一覧」もあってもいいでしょう。

 

だれがやるかっていうと、民間でも官でもいいんですけど、

 

例えば国括りで「日本」の「リアルタイム商品一覧」が閲覧できるウェブサイトがあっても良いと思います。

 

だって、食べログとか、グルメ業界でも、一覧サイトありますよね。

 

あれは、店が食べログに手数料払っていると思うんですけど、

 

「商品を認知するためだけに」「非効率な方法で」「都度コストが発生する」って、

 

無駄すぎじゃないでしょうか。

 

こう言うと、「広告業」を生業にしている人への攻撃になっててごめんなさいなんですけど、

 

私はそういう攻撃破壊目的じゃなくて、

 

「広告業」があるうちは、経済活動の中の「消費活動」が、とても非効率である、という構造が気に入らないんです。

 

だって、付加価値高い、質の良い商品作って、適切な値段で売ってるけど、

 

「広く知られてないから」「売れない」って、無駄すぎるでしょう。

 

そんで、質の低い、まぁまぁの値段の商品が、広告で広く知られるんですよ。

 

そんな商品、売れなくても良いし、全部廃棄した方がいいじゃないですか。あるいは、そもそも作って売るべきではない。

 

企業努力が、売り上げ・利益に繋がらないって、

 

つまり「企業努力すんなよ、無駄だから」っていう圧力になっているんですよ。

 

「質の良い商品・サービス提供するなよ、成長するなよ」っていうのが、

 

「広告で金取る」構造が作り出す作用でしょう。

 

その作用のために、キャッシュフローが生まれるって、ドブに金捨ててるのと同じだと思いますね。

 

そういうロスを許容するって、燃料タンクに穴開いてる車を走らせてるようなもんですよ。

 

だから、「広告は無料公共サービスに位置づけて」「広告業は廃業に持って行くべき」っていうのが私の意見というかアイディアです。

 

つまり、グーグルとかYOUTUBEとか、「まだ広告やってんのか」と「いつの時代だよ」って思うんですけど、

 

実際には、広告まみれなので、

 

そういう政治決定なんだろうな~と思っています。

 

政治決定なら、しょうがない。私があきらめましょう。

 

しょうがないし、あきらめるけど、広告業が経済の効率化を阻害しているっていう考えは、持ち続けますけどね。

 

誰も言わないことだけど、なんでみんな不思議に思わないんだろう。

 

たしかに、テレビCMとか、すごく凝ってる、「映像作品」みたいな芸術性もあって、感動をしたりもするんですけど、

 

それはそれで、「良い物作ってるな~」っていう世界ではあるんですけど、

 

構造的には、ドブに金捨て行為だねって、いうことです。

 

だって、企業イメージとか、別にアップする必要ないじゃないですか。

 

商品のクオリティとか、「やってる商売」をよく知ってもらえば、客は不可避的にその満足度を点数付けしますから。

 

えっつまり、

 

「企業イメージアップ広告うってる会社って」

 

「質の悪いしょうもない商売してるんでしょうか?」

 

いや、そういう会社だけじゃないはず。

 

でも質の悪い商売してる会社を隠すためには、

 

「広告の無料公共サービス化」なんて、できないでしょうね。

 

すぐ比較して、質が悪いのばれちゃうから。

 

はぁ、政治決定ですね。ハイハイ。

 

でも、歴史上、色んな商売の形態が変化の波に飲まれて消滅してますから、

 

「広告業」はその筆頭に近いと思いますね。

 

これは勝手な予想なので、実際に消滅するとは限りません。

 

政治的に優遇されているならなおさらですね。

 

現状維持で良いと思います。(穏便)

 

おわり

いじめ問題の核

学校とか、職場とか、いじめ問題があると思います。

 

いじめられている側からすると、「嫌がらせ」を受けて、それがつらい、

 

精神に不調をきたして、最悪、完全に絶望して「自死」に至る。

 

自死に至った人には、当然、家族・親戚がいる。友人・知人もいるだろう。

 

家族や知人からすると、「仲間が殺された」という認識になる。

 

世界の不条理さに怒りや悲しみの感情が湧いてくる。

 

なんでこんな目に遭わなければいけないのだろうか、と。

 

ここでの問題は、当事者からすれば

 

「十分な理由(被害者に落ち度)もなく、一方的に強い攻撃を受けた」

 

→「結果、自死に至った」

 

という側面になりますが、

 

より客観的に、包括的に捉えると、

 

「その構造って何なんだろう?」というアプローチになります。

 

「なぜ自分は(あの人は)いじめられなければいけないのか?」

 

その認識は十分にありえますし、実際にあるでしょうけど、

 

その前提としては、「いじめられないのが通常」という認識があります。

 

「不幸が通常」なんて、まるで「地獄」のようだからです。

 

「そんなのまっぴらごめんだ」それは、おそらく全存在にとって共通認識です。

 

逆に、「まっぴらごめんなのが」→「不幸・地獄である」というのが地獄の定義だからです。

 

「まっぴらごめん」は、嫌だから、

 

自分はそこから逃げたい、回避したい。遠くのエリアの物語であってほしい。

 

それも、一部の多数派の人にとっての真実ですが、

 

他方、一部の人たちにとっては、その「いじめられる」状況がありふれている、そのまっただ中で、出られないというケースがあります。

 

簡単に言うと、「地獄から出られない」のです。そういう人は確実にいる。

 

じゃあ、その環境下でどういう現象が起こるかというと、

 

唯一の救いがあります。

 

それは相手を「いじめる」ということです。

 

「いじめられる」=「苦しい」からの唯一の救いは、

 

「いじめる」=「気持ちいい」となっています。

 

これは、方向性の選択の余地はなく、それしかない。そういう地獄牢獄に生きている人はいます。

 

唯一の救いが、「いじめて気持ちよくなる」ということなので、

 

それをやるのが当たり前になります。

 

それが当たり前じゃないというのは、「地獄牢獄」の外に脱出できて、他のアプローチで幸せになる方法を見いだした人だけです。

 

その能力がないケースは、当然、地獄牢獄から出られませんから、

 

「いじめて気持ちよくなる」が当たり前になります。

 

ただ、上記までの私の記述には精度が欠いている部分があって、

 

それは「生きている人(地球人)」は「地獄牢獄の外に出られている」ということです。

 

解放ですね。

 

よって、その牢獄の外も含めた、包括的な世界におけるルールでいうと、

 

「かならずしも、いじめて気持ちよくならなければいけない理由はない」

 

ということになります。

 

なぜなら、別にそれにこだわらなくても、他の方法があるからです。

 

例えばアニメの美少女を愛でたり、

 

女性を慈しんで愛情を育んだり

 

スポーツをして汗をかいたり

 

いくらでも、幸せになるアプローチはあります。

 

しかし同時に、「いじめることが無くなることはない」ということも言えます。

 

地獄牢獄は、包括的世界の内部に確かに存在していますから、

 

その包括的世界において、「地獄牢獄メソッド」を使用することもまた、選択の自由だし、「ありえる」ということです。

 

前の日記でも書きましたが、地獄牢獄と包括的世界の関係は、

 

「同列」ではありません。

 

構造的に、包括的世界は二次的・副次的であって、地獄牢獄の方が比較相対的に、根源的です。

 

なので、「都合の悪い地獄牢獄」を排除したり、消去したり、それはそもそも不可能なのです。

 

包括的世界側には、その手段も力もない。

 

できるとすれば、「あるもの(地獄牢獄)の存在を、あるのにも関わらず、無いように思い込む」=「見ないふりをする」くらいです。

 

仮に私が「見ないふりを」しても、しなくても、地獄牢獄は確かに存在しています。

 

「包括的世界が存在している」と認識する場合は、必然的に地獄牢獄の存在も肯定することになります。

 

アニメの攻殻機動隊のキャラクターにもいましたが、

 

「私は何も見ない、何も聞かない」っていうのもひとつの「あがき」です。

 

地獄牢獄を含む、包括的世界そのものさえ「見ない」、ゆえに「何も無い」という方向性です。

 

でもそれも欺瞞でしかありません。欺瞞というか、絶望して逃避しているのだと思いますが。

 

よって、長くなりましたが、

 

いじめ問題の核、急所とは、

 

「地獄牢獄の存在は否定できない」

 

けれども

 

「地球に生きている人であるならば、その牢獄から例外なく離脱できている」

 

「離脱できているのにも関わらず」

 

「わざわざ地獄牢獄付近に留まって」

 

「相手をいじめて苦しめることで、気持ちよくなっている」

 

という点です。

 

包括的世界の住人としては、

 

「わざわざ地獄牢獄に留まっているのであれば」

 

「じゃあ、お前の手法、ルールで付き合ってやるか」と

 

「いじめ合戦になる」というのが普通の方向性です。「潰し合い」ですね。

 

ロシアのプーチンに対しては、地獄牢獄の住人でありたいようなので、「潰し合い」が基本になります。

 

細かな操作としては、

 

「望まざるをして、地獄牢獄周辺で迷ってしまっている」

 

「自分を制御できていないはぐれ者」に対して、

 

「お前は地獄ルールを好んでいるのか?」という質問をして、

 

「もし答えがNOであるならば」

 

「いじめ・いじめられ手法以外の、幸せになるためのアプローチを伝授する」

 

=「地獄牢獄から、十分に退避させる、そのガイドをしてあげる」

 

というのがあってもいいかなと思います。

 

「そんなのいらねぇよ」っていう人がいたら、その人は「はぐれ」てるのではなく、単純に地獄牢獄を好んでいると判断できるので、

 

通常営業で、じゃあそいつとは潰し合いだな、という判断で良いと思います。

 

地獄牢獄を好むって事は「よっぽど勝てる自信がある」ってことでしょうけど、

 

じゃあ、思う存分、地獄で勝ってみてください、とわずかなエールを送ろうと思います。

 

私は地獄は「嫌」なので、適当に広い世界でのんびりしようと思います。

 

まぁ最悪地獄環境でも、がんばって生きていくしかないんですけどね。

 

おわり

権力-支配体制における妥協

あなたとわたし、対面方式括りの関係性においては、

 

普通にやったら、「綱引き」「勝負」になります。

 

「苦しいのはあなたのせい」

 

「あなたを負かせて、苦しめることができたら、わたしは幸せ(勝ち)」

 

これの応用が、「競争」です。

 

「任意のあなたを高確率で負かせることのできるわたしになろう」

 

で、これらは良いのですけど、

 

なぜ良いかというと、「対面方式」は常に存在しうるからです。

 

「対面方式」が無いということは、理論上ありえない。

 

「あなた」と「わたし」と「それ以外の何か」、第三者を含む、包括方式が成立しうる場においては、必ず対面方式という「パズルピース」が存在するからです。

 

だから、それが存在することを否定することは、基本的にできない。

 

対面方式を否定すると、包括方式も瓦解します。自滅するから、それはできない。

 

だが、これも、もうひとつの事実ですが、

 

「対面方式」「のみ」の個体を、包括された場に置くと、それらの個体は「ひたすら潰し合い」をします。

 

個体本人目線では、永遠に「負けない、勝つ」を繰り返すだけで、通常営業ですけど、

 

それを客観的に見た個体は、「こいつら何やってんだ、ひどいな、危ねぇな」という解釈をします。

 

正確に言うと、「永遠の潰し合い」環境によって、非常に負けが込んで苦境に立っている一部の個体が、

 

その負荷によって臨界点を突破した場合、「包括方式」への離脱が起こる。

 

「包括的な場」では、潰し合いをする必要が無く、安定が得られることがわかった。

 

だからこそ、「潰し合いしている奴ら」を客観的に見て、

 

「こいつら何やってんだ、ひどいな、危ねぇな」と解釈するのです。

 

つまり、この「潰し合いってひどいな」という解釈自体、恣意的であり、

 

自己の存在のプロセスを辿ると、「潰し合いは『常にある』と認めざるを得ない」という認識が、正解になります。

 

正確に言うと、「幸せー不幸」の対立項を生む場において、通常営業のエネルギー循環を見る際に、「恣意的に」「ひどい」というレッテルを貼っているということです。

 

簡単に言うと、「あなたを奴隷扱いして搾取することも」「フェアな視点に立つと、『ひどくない』」ってことになるのです。

 

ああ、なんて都合の悪い真実でしょうか。

 

でも私は都合が良かろうが悪かろうが、関係なしに事実はあると思うので、そうなんだろうな、と思います。

 

ただ、エネルギー循環っていうのも、

 

「ありのままに流れる」でもいいし、どういう意志があろうと、その意志の在り方も含めてエネルギー循環なので(すべては包括されているので)

 

「潰し合いはひどい」もありうるし、「潰し合いしよう」もありうるのです。

 

「潰し合いをやめさせよう」もありえる。しかし、同じ程度で「潰し合いを積極的にやろう」も同時にありえる。

 

ということで、ロシアのような国と、自由な民主主義の国が同居する、みたいなことは確率的に十分高い、ありがちなことだということです。

 

なっかなか本題に入れませんが、ここで登場するのが「支配体制という妥協」です。

 

支配っていうのは、「効率的に省エネであなたに勝てている」「勝った状態で安定している」ってことです。

 

これは「楽勝」で、とても幸せなことです。

 

負けてる方は、ずっとガボガボ溺れているので、たまったものではないですが。

 

ただ、なんか「それって不平等でひでぇな」って言ってる奴がいることに気づきます。

 

「わたし」は「は?ひでぇって、どういうこと?不平等?相手を潰して搾取するのは当たり前じゃないか」と思って、

 

その妙な奴と、「対面方式」で勝負しました。

 

すると、「勝てませんでした」

 

わたし「クソッこいつおもしれぇな、全力でやったろうじゃねぇか」

 

結果、「やっぱり勝てませんでした」

 

わたし「うぅ・・・苦しい・・・もうだめだ」

 

わたし「わかった、わかった、アンタちょっと手加減してくれ」

 

わたし「潰し合いするときは、支配体制を微調整して、やりすぎないように安定させるから」

 

わたし「今おれが潰しているやつらも、そんなにめちゃくちゃ苦しめるようなことをせずに『バランスとって』『ひどくないようにするから』」

 

わたし「それで、オレのこともあんまり苦しめないように、勘弁してくれよ」

 

あなた「・・・是」

 

わたし(よかった、時間稼いでる間に、こいつに勝てるようにならないとダメだな)

 

わたし(必ずこいつの力を手に入れて、支配して、オレが勝ち続けるぞ)

 

・・・というストーリーがあったら、どう思われるでしょうか。

 

私だったら、「あぁ、やっぱりすべてはあるがまま」だな、と思います。

 

個人的には、あんまり極端なことが起こって、「何か」や、自分が引き裂かれるのは、いやだなぁと思います。

 

おわり