例えば、理知的な人がいて、とても温厚で、人にやさしく、なおかつ何らかの分野の高い技術を持って活躍していたとします。
そういう人でも、夕食には牛肉とか豚肉とか食べているわけです。
スーパーでは、お肉パックを買い物カゴに入れて、キャッシュレス決済「ピッ」として、スマートに購入し、家で料理して食べています。
しかしこのお肉パックができるまでは、
業者の方々が、
「家畜の眉間を専用の銃で撃ったり電気ショックなどの手段で失神させた後」
「逆吊りにして、生きたまま喉を切り裂いて血を抜いて殺す」
「肉塊にして、さらにそれを解体し、お肉パックに加工する」
というプロセスを踏んでいます。
つまり、「理知的な善なる人も」「動物(家畜)とのガチンコファイトを」「業者に外注」しているのです。
ゆってる私も、毎日毎日、欠かさず「業者さんへの外注」という形で、この動物とのガチンコファイト、「お前を殺してオレが生きる」ムーブをしています。
で、生きる以上、誰だって、そうしなきゃ食べていけませんので、
人間社会においては「捕食はみんな必要だから、社会的には悪いことじゃないよね」という同意がある・・・
というかそういう「残酷な動物殺し」とは自分は無関係だ、自分の世界の外側のどっかで起こってるから見えないや=見えないのであれば「それは無いや」というテンションで、
私は生きています。
つまり、ここで言いたいのは、理性的・客観的視点での、「ウインウイン」「みんなが幸せになろう会」のベースには、常に血なまぐさいガチンコファイトがあるということです。
これは、動物だけでなく、植物だって同じ事です。
何かの葉っぱとか、レタスはちぎっても「痛い!」とは言いませんから、
「あっ平気なのね」と思いがちになりますが、
ちぎって平気なわけないでしょう。そもそも「光合成」というスペシャル技を常時使っている植物は、そうとうな負荷を背負って生きています。「生きてるだけで辛い」みたいな感じですね。
というわけで、どんなに軽やかにスマートな生き方をしていても、それは、数多の犠牲の基礎があって、初めて成立するものです。
こうして見ると、例えば「マウント取り・抑圧・搾取おじさん」がいたとしても、
そのガチンコファイトを表に出してわかりやすくしているか、それとも水面下に隠して蓋をしているかの違いだけだと思わないでしょうか。
まぁ、私は個人的には「人間同士の共食い」は、けっこうグロテスクに感じるので、
他の動物とはガチンコファイトするけど、人間とはやりたくないなぁ=平和でスマートがいいなぁ、と思っています。
ただ、その線引きも、私のさじ加減ひとつの恣意的なものなので、
「人間同士の共食いしたいよ」って人がいるならば、「あっそうなんですね」としか言えません。
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で、ここまでを踏まえた上で、「賢く理知的に生きることの構造」をわかりにくく説明したいと思います。
まず、賢く生きるためには「世界の中での自分の立ち位置がわかっている」ことが非常に重要です。
これを、ところてんを用いて解釈すると、わかりにくいかもしれません。
ところてんは、若い人は知らない人もいるかもしれませんが、
「『ところてん突き』という編み目状の刃がある四角い木の筒」に「トコロテンの塊」を銃の装填みたいにズドンとセットして、棒で押し出して、ニュルッとたくさんの麺状のトコロテンが出てきて完成させます。
私たちの身体的特徴とか、主観とか、判断とか、解釈とか、それらに基づいた行動とかは、
この「ところてん突き」の道具と似ています。
生体としてのエネルギーを、みんなそれぞれ個性のある「ところてん突き」に入れて、
押し出して何かのアウトプット(仕草、発声、文章、宿題のレポート、大笑い等)を、ニュルッと出しているのです。
人生で成功している人は、自分の(できるだけ大きい)エネルギーをできるだけ効率よく活かして、美味しいところてんをニュルっとたくさん作っています。
美味しいところてんが作れる人は、自分も嬉しいし、他の人もそのところてんを食べて「美味しい!」「こんなに良いところてんが作れるなんてカッコイイ!」と褒めてくれます。羨ましいですね。
で、これで十分かというと、実は十分ではありません。
理知的でスマートに生きるためには、もうひとつの視点が必要になります。
それは「トコロテン作ってるあなた自身が、トコロテンなんですよ」という見方です。
「我こそは最強の捕食者、人間である!トコロテン(原料はテングサ)を、美味しく作るのであ~る!」とかゆってる本人から、カメラを引いてズームバックしてみると、
地球というところてん突きに入ってるトコロテンの塊が、その人本人なんですよ。
つまり、わかりにくく言うと、
「トコロテン突いてる奴が、トコロテンとして突かれている」という構造です。
この視点があって、初めて理知的でスマートな人になれます。
突かれたトコロテンの塊は、みんな平等ではありません。
ある部分は、「何のストレスもなくスルーッと突かれて、気づいたら完成品になってた」という幸せな境遇にもなりますが、
他のある部分は「めっちゃ切り刻まれて、うぎゃぁ!となって、ボロぞうきんのようにダウンしてしまう」こともあります。
なので、理知的でスマートな人は、「より安全な立ち位置、ポジションをがんばって獲得しようと努力します」
その椅子取りゲームに勝てない、又は、そもそもそういう椅子取りゲームが開催されていることを知らない脳天気な人は、「バツを引かされて」「より苦しい立場に追い込まれる」ということが起こります。
なので、誰でもそうだと思いますが、
がんばって、できれば良いポジションを得たい、ですよね。
そのために、必要なこととは、
ここで!視点を戻して、
「自分が、ところてん突きを使って、ところてん作ってる」シーンに戻ります。
自分がところてん作ってるので、この瞬間に「支配者待遇」に格上げされます。
その有利な立場を活かして、「どのようにところてんが作られるのか」「美味しいところてんを作るには、どういうコツがあるのか」を探求する必要があります。
自分の手に負える世界を、よく観察して、ところてん突きの道具の構造とかもよく理解して、美味しいところてんを作れるようになりましょう。
それがある程度できるようになったら、また視点をクローズバックして、
「じゃあ自分がところてんになって、安全でいられるためには」「この立ち位置がよさそうだな!」ということが見えてきます。
「きっと、地球ところてん突きも、美味しいところてんを作ろうとするはずだ」「であるならば、こう突くはずだから、ここは安全だな」
という判断ができるようになります。
この2種類の視点を、両方駆使して、その両輪で、洗練させることによって、
理知的でスマートな生き方ができるようになります。
う~んわかりにくいですね。
ただ、世の中の「上手くやってる奴ら」が、どの程度なのか、ということを測るための参考情報にはなるんじゃないかなと思います。
みんなで美味しいところてんを作れたらいいですね。
おわり