国連WFP(世界食糧計画)の日本支部から配信メールが届き、寄付のお礼と、宇宙飛行士の野口聡一さんのメッセージ動画の紹介がありました。
野口さんは、国連WFP協会の顧問だそうです。
当機関がノーベル平和賞を受賞したのを機に、支援の輪を広めるためのメッセージ&お祝いとしてYoutubeに動画がアップされていて、その紹介がされていたので見てみました。
野口さんは「地球はたった一つしかなく、私たちはそれを大切にし、そしてお互いを大切にしなければならない」と発信されていました。
なるほど、実際に宇宙に行った人だから、説得力がありますね。
私が今回寄付したのは毎月5000円コースで、WFPの充分な活動にとって必要な額と比較すると、微々たるものですが、私も飢餓を防ぐことに役立てたら嬉しいです。
本当は自分でアクションを起こすべきなのですが、私は行動力があんまりないし、せっかくすでに活動している機関が国連にあるのならば「私の代わりにやって頂いてありがとうございます」の気持ちがあります。
自力でやるとしたらどうすればいいんだろう。まず政治家になって秩序を獲得して、その秩序の枠内で経済的に余力を持ち、貧困地域にできるだけの手助けをするって感じで、一生かかっても足りないくらいのミッションですね。
世界大戦などが起こっている最中に、こういった支援はできないでしょう。そういう意味では、ある程度秩序のある戦後の時代があってよかったです。
さて、ところで野口さんは「宇宙から地球を見下ろして、ユニークな世界の見方を手に入れました」という表現をしていました。(実際の音声は英語です)
その世界の見方とは、先に書いた「地球はたった一つしかなく、私たちはそれを大切にし、そしてお互いを大切にしなければならない」です。
この見方がユニークになる世というのは、地球もなかなか悲劇的な境遇ですね。そうは思わないでしょうか?
私はよく、イメージで野口さんのように地球を見ています。
人情のある人にとっては、この「見下ろす」感じは、「偉そうな奴が侮辱してる」という印象を持つと思うのですが、なぜこれをやるかというと、単純に情報収集です。
俯瞰することの価値と効力は、人工衛星で地上の写真を撮るとか、グーグルマップとか、それとほとんど同じです。
もっと言えば一人称視点で見るのと、さほどやっていることは変わりません。
やっていることは変わらないけど、高い上から見た場合(俯瞰した場合)は、特別な要素があって、それは「自分自身を含めた」「広いフィールドを」見ることができるという点です。
一人称視点で、「自分自身」と「広いフィールド」を客観的に見ることができるのであれば、わざわざ高いとこから見る必要はないのですが、少なくとも私にはできないので、俯瞰を使っています。
「これから俯瞰してみよっかな?」という人に水を差すようなことを言いますが、俯瞰はそんなに素晴らしい技術じゃなくて、カバーできないことがたくさんあります。
上から眺めたら、「Aさんが○○町の西部にいるな~」とはわかりますが、逆に言うとそれしかわかりません。
Aさんがその時、「ドーナツ食いたいなぁ」と思っていたとしても、それは見えないし、血圧が高めになっていても、よくわかりません。
すんごい上から見るので「神様の視点のようだ」と思う人もいるかもしれませんが、俯瞰を使う程度の輩(私とか)は、バリバリの「駒」でしかなく、客観的に見ると俯瞰は「児戯」に等しいです。
「児戯」であっても、今の私にとっては、ある程度身の丈に合った、便利な道具なので、よく使っているということです。
当然、俯瞰で対応できない局面になったら、俯瞰に頼ることはしなくなります。(個人的にはもっと性能の良い情報収集の技術が欲しいです)
私は、少年時代に「情報力に全振りした被験者として生きる(そしてそれを自分で観察する)」というテーマを採用しましたので、必然的に俯瞰をよくするようになりました。
俯瞰する必要を感じてこなかった、つまりそんなことしなくても生きていけると思っている人は、普通はしないでしょう。
上から見るよりも、自分のコンディションとか、目の前の相手と共感するとか、そっちの方が大事だとなおさらです。
ただ、対人関係に熱中している人であっても、日常でグーグルマップは見ますよね。
そんな感じで、気軽にやっちゃってもいいのが俯瞰です。
あと、世界は情報の塊である、という見方もできるので、俯瞰は全方位、目に映るすべての対象にあらゆる角度で使えるという応用技もあります。
ハンターハンターのヒソカの念能力のように、シンプルであるがゆえに応用が利くというやり込み要素もけっこうあります。
試しに、平面ではなく三次元空間まるごとを俯瞰してみると面白いと思います。
脳の計算装置がキュルキュル言いますよ。