一流とは

今回は「一流とは」ということで、なにやら自分の自尊心が危ぶまれそうなタイトルですが、既存の価値観を塗り替えていこうという趣旨です。

 

よく、会社の経営者の人・・・仕事面で、すごく能力が高い人って、

 

「社員も優秀な選手を揃えがち」ですよね。

 

会社の業績を最大化するためには、それが早道・効率が良いのは誰が考えても明らかなので、そうしている(良い人材を獲得することにやっきになる)のだと思いますが、

 

一方、私からすると、「優秀じゃ無い社員を使いこなせる経営者の方が、明らかに一流選手」だと思うんですよね。

 

ポンコツな、なんかゆがんだ性格の、へぼい人材を、「上手く活用」できたら、すごいことだと思わないでしょうか?

 

これはひとつの評価指標なので、絶対ではないのですが、

 

大体の会社経営社のマインドって、「優秀な人材を囲って」いこうって感じですよね。

 

その傾向が強すぎる、つまり妙に偏りすぎているから、今この日記を書いています。

 

「優秀じゃない社員を上手く活用して」「凡庸な経営成績を出して」「会社が末永く存続する」

 

って、なんか地味~な感じがしますけど、

 

公の利益に照らすと、「雇用問題」に対して非常に効果的なカードになりえるんです。

 

もし多くの企業側に、それを実現するだけのポテンシャルがあるならば、

 

例えば「ひきこもりニート」が働き出したりするんですよ。

 

家にこもってパソコンばっかりして、母親にキックしたり、八つ当たりでふすまに穴開けてるような、

 

はっきり言って、「くすぶりすぎてヘドロみたいになってる」人材(ひどい言い方)が、生産的な活動にシフトできるとなったら、

 

もう、「労働に関しては」「怖い物ナシ」じゃないですか。

 

そんなヘドロ人材でさえ、普通に働けるなら、

 

「他人より要領の悪いバカな」「使えない『わたし』」であっても、とりあえず食うには困らなくなります。金持ちになれるとは言い切れませんが。

 

なので、「優秀じゃ無い社員を上手く活用できる」経営者っていうのは、「すごいプレイヤー」なんですよ。

 

わたしの評価指標では、それが一流ってことになります。

 

でも、世の中の一流選手ってどう定義されているかというと、

 

「とにかくどんな手段を使ってでも」「すばらしい業績を出せる経営者」ですよね。

 

素晴らしい業績っていうのはどう評価されるかというと、つまり、未来の会社の利益額の合計である「株価」の高さですよね。

 

なんか、アマゾンの時価総額がなんちゃら、とか、「株価至上主義」みたいな。

 

欧米的な価値観でいうと、

 

「利益」を「小豆」に例えると、

 

「自分の手で」「たくさんの小豆を掴める奴がすごい」ってことになってます。

 

たくさんの小豆をつかむためには、効率よく「大きな手で」「速く手を動かして」、

 

じゃんじゃんつかみ取れる人、そういう人がすごいってことになっています。

 

でも、それって、安易すぎる(おバカさん)な面もあって、

 

例えば、漁業で言うと、

 

魚の種類ごとに、重量当たりの取引価格が決まっていて、

 

つまり、「期間当たりで、めちゃくちゃたくさん魚獲れば獲るほど儲かる」んですよ。

 

でも、実際の漁業では、それを厳しく規制していますよね。

 

そういうがむしゃらな「小豆手づかみゲーム」を推進すると、生態系のバランスを著しく崩すという側面があるからです。

 

魚獲りまくって、生態系壊して、「結果」「資源が枯渇して」「廃業」みたいなルートが現実的に起こりうるじゃないですか。

 

だから、漁業においては、「小豆手づかみゲーム」と解釈するのは、安易な(下手くそ)な考えということになり、そういう選手は全く一流とかけ離れているということになります。

 

でも、資本主義の枠内の、現代の企業はほとんど「株価至上主義」ですよね。

 

小豆を期間当たりで多くつかんだ人がすごいってことになってます。

 

こういう勘違いをする人って、「自分は周り(の人とか自然とか)に依存して」「生かされている」っていう認識が大きく欠落しているんだと思います。

 

私は、「自分」vs「自然界」という戦い(負けなければ勝ち)をシコシコやってきましたが、

 

自然界は「対峙する相手」「常に脅威である」という認識ですけど、

 

同時に「自然ナシじゃ自分は生きることができない」という存在論的には、味方にせざるを得ないというゲームです。

 

相手は敵だけど、敵憎しで、相手を滅ぼそうとしたら、「自分も滅ぶ」ということです。

 

そういう認識を染みこませているので、企業経営においても(経営したことありませんけど)、

 

「我が社は」「周り(他者や自然)に生かされている」「自分の会社単体だけでは、存在できない」

 

という認識を持って、経営したいです。(経営はしていません)

 

その観点で言うと、

 

「小豆手づかみ」ってちょっと頭が悪すぎるので、

 

「自分(の会社)と」「それ以外の周り」その関係性の枠内で、

 

「利益を上げられるような」「構造(=勝ちパターン)」を創り出そうっていうマインドになるんですよ。

 

直接的に小豆をつかみにいくわけではなく、間接的に、遠隔的に、回り回って、ナチュラルに必要なだけの小豆が手に入る、そういう仕組みを作って、会社を維持していく、

 

そういう方法論が、ありえます。

 

もしも「ひきこもりニート」のような「ヘドロ人材」を再生できるようになったら、「社会不安」が激減しますよね。

 

そうなると、治安も良くなる、当然、経済も活性化する。

 

その「自分を生かしてくれている」「周り」に対して、良い効果を与えることによって、「自分も利益を得る」。そういうカラクリです。

 

だから、「優秀じゃ無い社員を活用して、フツ~の業績出せる、地味な経営者は」「一流である」と言っているんです。

 

おそらく、「株価至上主義」の経営者って、

 

「めっちゃ良い業績を出さないと」「自分が優れていることの証明にならない」と思ってるんでしょうね。

 

困ったことです。

 

わかりやすく、数値で、「ドカン!」と出さないと、そこに意味を見いだせない。

 

まぁ、そういうプレーヤーもいても良いと思いますが、

 

「みんなが株価至上主義だから」「自分もその指標を導入しよう」とか

 

思う必要はないんですけどね。

 

さあ、欧米の「小豆手づかみ」な価値観を「安易なおバカさん」だと思っている私の考えを聞いて、

 

なにか揺らぐものがあったでしょうか?

 

揺らごうと揺らがまいと、

 

いずれにしても、

 

自分は周り(他者・自然)が無いと生きていけない、常にお世話になって生かされているという事実は変わらないですけどね。

 

それはプーチンだって、中村哲さんだって、みんな同じ条件です。

 

それは事実と違う!と言い切れるだけの力を持った人を、私は見たことがありません。

 

世の中広いから、もしかしたら言い切る人もいるかもしれませんが。

 

おわり