今回の日記のテーマは「他人を見下したりバカにしたりしないようになる方法」です。
これはリクエストがあったらしいので今、書いています。
個人的な結論を書くと、「別に他人を見下してもいい」「好きにすればいい」と思うのですが、
その習慣を持っていると、「心苦しい、止めたい」と思うケースもあると思うので、どうすればこれを変えられるかについて書こうと思います。
世の中を見ると、「他人に舐められたくない」と思っている人が多いように思います。
なぜかというと、「舐められると、攻撃の標的になって死活問題になる」からですね。
私は、この「舐められたくない」という発想がほとんどありません。
その根本には、「自分は自分、他人は他人」という割り切りがかなり強くあるからです。
私は、他人とか社会とか、に対して「一蓮托生である」という発想がほぼゼロでした。今は、考えは変わっていますが。
だから、「他人」が私のことをどう評価しようと、どうでもいいのです。
もしも誰かが私を舐めてかかってきたら、
「よしよし、こいつは相手を過小評価するタイプの、奢ってる雑魚だな」
「もし戦争になっても、その油断のスキを付けば楽勝だな」
と安心するのです。
普通の人、つまり「舐められたくない人」というのは、
そもそも誰かと「戦争」をすることを想定しておらず、「競争」をしているのだと思います。
あくまで、「社会の中での競争」に勝って、優位に立つ、そういうゲームをしている。
私は、中学受験で競争も経験したし、そこからドロップアウトしてNO競争も経験していますが、
はっきり言って、「競争」は暇つぶしにしかならないただの遊びで、自然界と向き合って戦う方がハードで、やりがいがあって、楽しいという嗜好を持っています。
だから、例えばクラスメイトの奢ってるザコが、私にナイフを向けて刺してくることも、当然想定している。
奢ってる程度のザコであるならば、
「うわぁっやめて!ひぃ~!」とかビビってる演技しといて、
相手が「顔に嗜虐的な笑みを浮かべて油断した」瞬間に、目とかの急所を的確について重傷を負わせて無力化すればいいな、と思っています。
まぁ、実際に行った学校のクラスメイトがそんなことするとはリアルには想定していませんでしたが、もしそうなっても、対応はできるように身構えはしていました。
なので、この観点で、人を見下したりバカにしたりしない方法としては、
「他人や社会に、自分が依拠しない」ということがひとつのポイントになります。
一個の生物として精神的に自立するってことですね。おそらく日本人は、これが苦手でしょうから、できないとか、そうなりたくないならば、やらなくてもいいと思います。
競争にはまってる時点で、分母に属してるってことなので、
そもそも分母に属さなければ、競争もしない、結果「舐められても構わない」、よって、「他人を見下すことのメリットがない」ということになります。
あと、もうひとつの観点としては、「願望」ですね。
他人を見下したい人というのは、その相手を嫌悪しつつ、「そうであったらいいな」「そうでないと困る」という願望や必要を抱えているケースがあります。
例えば、学校のいじめっ子は、「なんか愚かっぽいけど、なぜか幸せそうな奴」をターゲットにしがちです。
その相手の存在を認めてしまうと、逆に、「こいつよりも不幸な自分って、大きく間違ってるんじゃ無いか?」という過酷な疑問が湧いてしまうのです。
つまり、ターゲットの子を鏡にして、「自分の巨大な問題」が眼前に現れてくる。
それに耐えられないから、自分の問題を矮小化するために、見下す相手をいじめて、「自分ではなく、相手が間違っている」ことを「確認」して「安心」するのです。
つまり、この構造から抜け出すためのメソッドは何かというと、
「見下す相手」=「鏡」を見るのをやめて(相手は放って置いて)、「自分の問題を解決することに着手する」という行動が有効になります。
自分の問題を、解決できない人や、解決しようと思ってもどうすればいいのかわからない人とか、そもそも自分には問題が無いと思い込んでいる人は、
当然人生が上手くいきませんから、その問題解決に、他人を巻き込む、という現象が必ず起こります。
見下す相手と二人三脚で、問題解決していこう、「一緒にがんばろうね♫」となるのです。
そうじゃなくて、自分の問題ときっちり対峙して、解決していく経験を多く積むと、「愚かだけどなぜか幸せそうな奴」を見ても、「あぁ、幸せそうでなによりだ」と思うに留まります。
なので2つめの観点のまとめとしては、
「見下す相手を必要としないように」「自分の問題は自分でこなしていくとOK」になります。
3つめの観点は、目的(評価軸)固定の設定による「視野の狭窄」です。
例えば、「サッカーが上手くなりたい」「プロになりたい」と思っている人がいたとして、
その人は生活のなかでのあらゆる評価軸が、「サッカーやるのに適しているか」に固定されます。
それはそれで、夢に向かってがんばってほしいのですが、
そうやって評価軸を固定すると、その軸でしか他人を評価できなくなるという現象があります。
例えば、マクドナルドでめっちゃデブの人がハンバーガーをわしゃわしゃ食べているのを見ると、
「サッカーでプロになりたい人」は、「この人、だらしない人だな」「何あのぽっちゃり腹」と見下したりします。
だって自分は、サッカー場を駆け回って、筋トレもして、ストイックにラーメンとかも我慢して自制しているのに、
そういう食にだらしのない人を見ると、「こいつ怠け者のクズだな」と見えるのです。
でも、そのデブの人は、実はすごい愛妻家で、家事も可能な限り手伝って、結婚記念日にはバラの花束をプレゼントしたりするナイスガイかもしれません。
でも、サッカーでプロになりたい人は、そんな家族サービスなんて、優先順位が低いのです。
「家族サービスをする時間を取られるくらいなら、トレーニングをやった方が正しい」
「多少、恋人とすれちがいがあっても、サッカーのプロになってJリーガーになれたら、恋人も喜ぶだろう」
みたいな発想をします。これが視野狭窄です。
私の場合は、「情報周り」のスキルを鍛えたので、その側面では自信がある程度ありますが、
それ以外の側面については、ほとんど手を付けていない、バカです。
「情報周り」以外に手を付けると、やっていた実験の被検体として、純度が落ちるな、と判断してそうしたのですが、
実際に手を付けていないので、私がバカであるという事実に変わりはありません。
要するに、私は「ある側面」ではめっちゃ強いけど、「それ以外の側面」に関しては、明らかにバカだということです。
おそらく、誰だってそうだと思うし、あらゆる側面でバカじゃない人っていないんじゃないかと思います。
この事実を知っているので、「別にバカでもいいや」「他人がバカでもいいや」と思っています。
まぁ、「あらゆる側面でバカじゃないようにしよう」というバランス型の人もいるかと思いますが、
私からすると、その人が想定している「あらゆる側面」が、全然「ALL(全方位)」を網羅できていないことを知ってしまうので、
「頭かくして尻隠さず」だなぁと思うわけです。
でも、本人がそれで満足してるなら、別に私はそれでもいいので、特に何も言いませんが。
人間という「生命現象」の評価は、「全方位」から行わないとできないし、
「全方位」からの評価なんて、おそらく人間には不可能ですよ。少なくとも私にはできません。
なので、人間として気をつけるべきことは、
「自分が何かを評価しているとき、常に視野狭窄が起こっているんだなぁ」
ということじゃないでしょうか。
こんくらいですね。
あと、4つ目としてはアリとキリギリスのお話。
自分がバカだということは、周りが全員自分より優秀だということです。
それなら、その優秀な人達にたくさん働いてもらって、自分は簡単なできることだけをして、楽できるなぁ。
という発想もあります。
まぁ、競争社会でしのぎを削ってる人は、これには同意しないと思いますけど。
自分が愚かでも、そこまで悲観するような状況ではない、ということです。
めっちゃ長くなりましたが、「他人を見下したりバカにしたりしないようになる方法」としては、以上です。
最初にも書きましたが、別に、他人を見下してもいいと思いますよ。
そうしたいのだから、そうすればいい。
私はそんなことどうでもいいから、自分の問題と向き合うだけです。
そういうゲームをしています。