娯楽性日記 8/9

台風が近づき、大雨も日本列島を覆うウィークがやってくるみたいで、暑かったり災害があったり、苦難はあるものですね。

 

もしも被害を受けて、立ち尽くしてしまったときは、将来のことは考えずに、ひたすら今のこと、今なにをするべきか、今なにをしたいのか、それだけに注意を払って、生きていって欲しいと思います。

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今回のテーマは「自分の像」について。

 

私は最近まで、「自分の前世は○○かもしれないな~、だからこういう性質があるんじゃないかな~」とか、自分の人物像をなんとなくイメージして、定義していました。

 

でも、これって、けっこう無意味なことかもしれないと思い直しました。

 

例えば「自分は性格が暗い人間だ」というイメージを肯定してしまっている場合。

 

他の人が自分と関わっても、相手は楽しくないんじゃないか、とか、

 

名声とかを得られる表舞台に立ってはいけないんじゃないか、とか

 

意思決定や解釈にけっこう影響を及ぼします。

 

でも、実際は「私は暗い人間だ」は正しくなくて、「暗いときもあれば明るいときもある、性格が変化しうる存在」である可能性もありますね。

 

他の人と話したら、意外と話が盛り上がるかも知れないし、

 

新しい場所に飛び込んで努力してみたら、意外と高く評価されたりするかも知れません。

 

人は変わりうるので、「私は過去までこういう人間だったから、未来もそのような人間であるはずだ」というのは、けっこう外れる予想だったりします。

 

それに加えて、Youtube養老孟司さんの動画で見たんですが、人間の腸には無数の細菌が住んでいて、それは循環している。人間の身体は移ろいゆく河川のようなもので、「私とは」という定義は不可能でナンセンスである、という趣旨の考え方があるようです。

 

これは、そういう風に見ることもできる、一理ある考えだと思います。

 

確かに、「自分が吐いた唾は、自分なのか?」と考えると、自分かも知れないし自分で無いかも知れないな、それをはっきり線引きしてもちょっとナンセンスだな、と私も思います。

 

ただ、人間は「私」という概念がないと、例えば、食事もままならなくなってしまい困ることになります。

 

箸でつまんだおかずを「私の」口に運ばなくては、食事が不全になるからです。

 

動物も、きちんと食事ができている(猿がエサを自分の口に運べる)点からも、動物にも虫にも「私」の概念はあるのは明らかです。

 

ちなみに、私は10年以上前、一人暮らしをしていたころ、大量発生したゴキブリと泥沼の戦いをしたことがありますが、子ゴキブリを私に殺された母ゴキブリは、明らかに怒気を放っていました。「私の」子供たちを殺されたという怒りですね。

 

このように、人間とか生命に「私」の概念があるのは確かです。

 

しかし、その私の性質まで言及してしまうと、その空想上の自分像のイメージと、現実の乖離が発生しやすく、損をする可能性が高いと思います。

 

私はあんまりないのですが、人によっては「私はこうなりたい」「あの人みたいになりたい」といった風に、特定の「人物像」を獲得しようという欲望があるようです。

 

あのアイドルは「かわいいから」「みんなから愛される」ので、

 

私も「かわいくなって」「みんなから愛されたい」のだと思うのだと思います。

 

「かわいくなって」「みんなから愛されたい」という夢は、まったく問題はありません。そうしたいのなら、それをやったほうがいいと思います。

 

ただ、「私はかわいくない」とかは、あまり思う必要がないと思います。

 

「すでに今かわいいかもしれない」し、「これから変化してかわいくなることは十分にありえる」からです。

 

「私はかわいくないから」「みんなから愛されるのは諦めた方がいい」とかは、事実との乖離が大きくなってしまうので

 

「私はかわいくもなるし、かわいくなくなることもある、移ろいゆくものだ」という認識をするか、もしくは「自分のイメージはわからない」「そのイメージを想像しない」というのが健康的な精神の在り方だと私は思います。

 

私も、自分に誤った定義付けをすることは、しょうもないのでやめようと思います。

 

ややこしいことは、しないほうがいいでしょう。