私は対自然の戦いを主にしているのですが、その観点でいうと、最も重要な要素の一つが、理(ことわり)です。
理をどのように活用するか、というと、
まず避けなくてはいけないことが、「自然の大きな力との衝突」です。物量ではこちらが圧倒的に不利なので、例えば津波とか、ハリケーンとか、巨大な力と自分(個)がまともにぶつかることだけは、絶対に避けなくてはいけないのです。
対自然において、個は、常に「風前の灯」なのです。
自然からの物量攻めを回避するためには、「理が見えていること」が絶対必要条件になります。又、以下は補足ですが、理が見えていて、大きな力の動きを見切った状態においては、その力の波に乗って(サーフィンして)利用する、という行動も取れるようになります。
人間社会においては、自然界の理と矛盾するようなルールの発生が度々見られるので、そのルールを真理だと判断して(人間社会の中に閉じこもって、外の世界は無視する)行動するのも、ある意味合理的な判断と言えます。
しかし、対自然をやっている私からすると、人間社会の力よりも、自然界の力の方が遥かに巨大で、恐ろしい、刮目せずにはいられない、ヤバい存在なので、「人間社会の理に依存するのは怖すぎてできない」という見方をしています。
しかし、人間社会の理を無視したら、お金もあまり稼げないし、餓死してもおかしくありません。つまり、私は人間社会の理というローカルルール(狭い範囲のルール)を、軽視しすぎているんですね。これは私のアンバランス(欠点)です。
人間社会の理も見て、自然界の理も見る、両者のバランスを取る、というのが個として一番良いでしょう。
しかし、私の個人的な感想ですが、「そこまで自分を大切にして、何か意味あるの?」と思います。
貧困に喘ぐ人や、国の内戦に巻き込まれる人や、憎しみの感情から解放されない人が大多数を占めるこの世界で、「私」が(若しくは任意のAさんと言ってもいいですが)そこまで良い環境に置かれることには意味なんてないし、ましてや、それを目指すなんて、あり得ないのではないでしょうか。
なんであり得ないんだろう。
例えば100人の村があるとして、そこのAさんひとりがめちゃ幸せになって、その他99人が不幸になっているとします。その状態に、何か意味があるんでしょうか。
「無駄なこと」じゃない?と思います。もし、Aさんの幸せの絶対値が、99人の不幸の総量の絶対値と等しいならば、まぁ、必ずしも無意味とは言いませんが、
どうせAさんの幸せの絶対値なんて、たかが知れています。(思い込み)
そんな形に向かうために、村人のエネルギーを使うなんて、どぶにお金を捨てるのと同じことではないでしょうか。
そういう意味で、結論としては、自然界の理と、人間社会の理の間でバランス取るような行動は、優先順位が低いということです。
その前に、村人それぞれが、自分のやっている事を正確に観測して(これは非常に難しいんですが)、無駄を減らすように努力することのほうが優先度が高いと思われます。