ニーチェの哲学

カントに続いて、Youtubeニーチェ(1844~1900)の解説動画を見ました。動画はサックリしたライトな解説だったので、ウィキペディアも参照しました。

 

ニーチェはカントの流れを汲んでいる

カントは理性の構造解明に着手しているので、その流れを汲むということは「より詳細に理性を読み解く」か、「理性の構造をインプットとして、次段階へ進む」のどちらかになると思うのですが、ニーチェのアウトプットは「具体的な思想」となっていて、やや的外れ(カントを応用するという観点では的外れ)だなぁ、本当にカント哲学をインプットにしているのかなぁと疑問があります。

 

永劫回帰

意味:この世界は、すべてのものにおいて、全く同じことが永遠に繰り返される

感想:「全く同じことが繰り返される」と言い切れる材料がないし、「繰り返していない」と言い切れる材料もない。キリスト教がダメ→ダメなキリスト教が説いている〇〇はダメ→反〇〇が正しい、というお粗末な話法。これと同じ構造の文章を最近ツイッターで見ました。

 

●超人

意味:キリスト教が救済したい弱者等によく見られる恨みの感情「ルサンチマン」を克服した者。及び、絶対的真理を廃し、次々と生まれ出る真理の中で、それと戯れ遊ぶ人間。

感想:私は社会的地位が低いので、社会的立場が高い人に対する期待は大きいです。期待よりも低いパフォーマンスしているとイラっとします。イラっとの具体的な内容は「その立場にいて仕事の質が低いと船(みんな)丸ごと沈むぞ?やばいぞ」という焦燥ですね。これも一種のルサンチマンでしょうか。ネガティブな感情を克服することや、理を極めることを目指すのはいいんじゃないでしょうか。私がやってることは超人を目指すこととかなり一致しています。ただ、人間全員が超人を目指すのは少し無理があると思います。あくまで1つのジャンルとして社会的理解があると嬉しいですね。

 

力への意志

意味:「意志」は個人の主体的な感情のみを指すのではなく、自然現象を含めたあらゆる物事の中で拮抗している。達成、野心、「生きている間に最も良い所へ昇りつめよう」とする努力、これらはすべて力への意志の表れである。強者は、凡庸な人間に自分を合わせたり、又、弱者を見て己の優越感を味わうのではなく、常に一層高次の生を求め己を推し進めるべきだ。弱者は、ルサンチマンに囚われることなく、常に強者が示す高次の生き方に憧れ、己がそのようにできないとしても、尚、それを望むべきである。(この論はナチズムに利用されるに当たり、歪曲済みのもの、との説がある)

感想:強くなろう、はいいことだと私は思います。人という字は支え合っていますが、支える側と支えられる側のバランスがある水準を下回ると全滅ですから、個々人の能力のベースアップが有効だという普通の話です。キリスト教の「弱者でもいいんだ」に反発して、ちょっと強いトーンで「強くなろう」とぶちかましてると思いますが、その大げさ感を差し引けば、言ってることは同意します。ただ、強者はこうあるべき、弱者はこうあるべきというのはちょっと不自由ですね。私が強者&弱者(つまり全員)に求めるのは、「船(全体)が沈まないように社会のトータルで辻褄合うように努力してほしい」ですね。それがクリアできたら、あとは何したっていいです、好きにやってください。

 

(まとめ)

ニーチェは、哲学者というよりも、「人生とガンガン闘った人」の印象です。強い主張ですが、サンプルとしてはあまり使えないです。もっと変な形状をしていて、理を通していたら、貴重な模型になったと思います。強い人もいれば弱い人もいる、同じ人でも強さや弱さがある。人間は70億人もいるし、70億人しかいない。そういう点で、「変な形の人」の模型が価値を持つと思います。