蜘蛛の糸

芥川龍之介の作品「蜘蛛の糸」を読んでみました。

 

<要約>

極楽にいるお釈迦様が、下の地獄の様子を見た。罪人でありながらも、生前に蜘蛛に慈悲をかけたカンダタの姿を確認して、これを救おうと、蓮の葉から蜘蛛の糸を垂らした。地獄でヘトヘトになりつつ、糸に気づいたカンダタは「これぞ好機」とばかりに、糸を登っていった。途中まで到達したところで、下を見ると、大勢の罪人たちが登ってきているのがわかった。カンタダが「これは俺の糸だ、お前らは下りろ」と言うと、糸は切れて皆地獄に再び降ろされてしまった。カンダタの無慈悲な心が、そういう結果を招いたのだろう。

 

<感想>

芥川龍之介の作品は、文章が美しく、難解でもないので読みやすいなと思いました。ここで、もし私がカンダタの立場だったら、どうしただろうか、と考えてみました。

 

まず、自分は罪人(殺人や放火などをした大泥棒)です。地獄に落ちても仕方がないな、とは思いますが、地獄は辛いので、なんとか脱出できないかと考えます。

 

地獄は、辺り一面暗闇で、血の池や、針の山があるようです。これを見て、あぁ、上の人は自分を痛めつけ、絶望するように仕向けているんだな、と解釈します。

 

脱出するに当たり、どのようなアプローチがあり得るか、候補を出します。ひとつは、地獄の檻の破壊。ふたつめは、上の人が定めたなんらかの脱出資格の取得。みっつめは、地獄システムにおける不具合条件達成。他にもあるかもしれませんが、とりあえずこの3つのアプローチがあり得ます。

 

そこで、上から糸が垂れてきました。おやっと思います。上の人にとって、罪人を痛めつけ、絶望させるという目的のためには、これは別に必要のない操作です。

 

つまり、希望(どのような希望なのか、まだわかりませんが)があるのかもしれません。ここで候補として急上昇してくる手段が、「上の人が定めたなんらかの脱出資格の取得」です。

 

糸を登っていけば、もしかしたら脱出できるかもしれませんが、果たして自分がその資格を満たしているのか?という疑問に対しての答えが不明です。

 

もし資格を満たしていないのであれば、糸を登って上に行っても、無為に終わる可能性が高そうです。

 

とりあえず、糸の様子を見ます。この「上から糸垂らし現象」を全力で観て、重要な情報を抜き取ることに集中します。賭博用語でいう「見」に入ります。

 

・・・

 

実際のカンダタは、この場面で、糸を登ってしまったので、この後どうなるかわかりません。もしかしたら、お釈迦様は、糸を引き上げてしまうかもしれません。

 

そうなった場合は、フムフム、「一度垂らした糸を、しばらくしてから引き上げた」という一見意味不明な操作を、上の人がしたな、という事実確認をします。

 

これを見て、上の人は、ガチガチのルールに従って地獄を運用しているわけではないんだな、気まぐれで動いてる可能性あるな、という判断をします。

 

そうなると、地獄で自分(罪人)が苦しむこと自体に、上の人は依存していないんだな、という判断をします。

 

上の人が、罪人に依存していないのであれば、自分次第で、地獄から抜け出せる可能性あるな、という希望を持ちます。

 

ここで、最初に候補に挙げた3つのうち、「地獄の檻の破壊」は、成功した場合、もっと厳しい環境に移動させられる可能性が出てきます。

 

そして、上の人がガチガチのルールに縛られていないことから、「地獄システムにおける不具合条件達成」は、上の人はそれほど重要視しないかもしれない、と推測します。

 

そうなると「上の人が定めたなんらかの脱出資格の取得」という手段が、一番有力な候補であることが想定されるとわかります。

 

脱出資格がわからないので、次にそれを探るため、地獄において、考えられるあらゆる行動パターンを網羅しにいきます。

 

もし、適切な行動を取った場合、又は、継続して適切な行動を取った場合には、再度、上から糸が垂れてくる可能性は十分にあります。

 

糸が垂れてくるのを待ち、もし実際に垂れて来たら、今度はそれを登ってみる、という行動を取ります。

 

登った後、どうなるか、これも「見」をする予定込みで、登ります。

 

このアクションを繰り返せば、おそらく地獄からは脱出できるんじゃないでしょうか。地獄の中でそこまでモチベーションを高められるか、が鍵ですが。

 

基本的に、自分に資格があろうがなかろうが、居るところが地獄だろうが人間界だろうが極楽だろうが、やるべき事は同じはずだ、と思っています。

 

そして、どんなインプットにも対応できるのが、優れたシステムです。