高学歴(早稲田大)、サラリーマン2年のあと、出家したという経歴のお坊さんについての記事を読みました。
要点は、
・若者は、ネガティブな感情を(周りに嫌われたくないという理由などで)言葉にできずに、ため込み、苦難している人が多い傾向がある。
・人生は、押しつけられた生であり、パッシブ(受動的)なものである。
・無理にアクティブになる必要は無く、ネガティブなまま難をありのままに受け流すのが良い
ということで、興味深かったです。
私は「アクティブじゃなきゃやばい」と思っていますが、それは私個人の感想なので、特に普遍的じゃなくてもいいかなと思っています。
ただ、このお坊さんは、けっこう単純に考えすぎていて、
人生は確かに受動的なものであるけど、能動的な側面もある、(両方ある)ものだと思います。
なぜ厳しい環境下でアクティブにならなければいけない条件が付くかというと、
もしも、すべてを「受ける」だけであるならば、
強者の都合の良いように、選択された側面のみを達成するための「純粋な駒」になるということです。
例えば、
とある富豪が、「奴隷を買って、安いコストで働かせまくろう」と発想した時に、
買われた奴隷は、骨折り損の労働環境を「押しつけられて」しまうわけです。
で、その時に「うわぁ押しつけられた・・・でもしょうがない」と発想して、
逆らわずに骨折り損の労働したら(私はこれも歴とした自己決定の範疇だと思いますが)、
富豪は、「あっ、命令したら、その通りにやってくれるんだ。OKOK!これいいな!」って思って、
ずうっと、奴隷を使い続けるんですよ。
だって、「それやってくれるんなら、問題ないな」って判断しますから。
だから、奴隷側は、
「とりあえずは骨折り損の労働を受けるにしても」(=パッシブ)
「自分の自由や、最低限許容できる生活ラインを確保するために」
「状況打開のチャンスを虎視眈々と狙う」(=アクティブ)
必要が生まれるんです。これは、第三者的な必要ではなくて、「奴隷の人本人の必要」です。
「奴隷生活でも、殺されるわけじゃないし、まぁいいか」と思う奴隷は、
そのままでアクティブにならなくていいでしょう。何も利害対立がなく、平和な労使の合意があるわけですから。
でも、私だったら、奴隷環境は嫌ですね。
雇い主の富豪が、そこまでご奉仕するだけの魅力がある人間であれば受け入れるかもしれませんが、
ボンクラならば「こいつにサービスする動機がないな」と思って、鎖を石で断つことを狙うと思います。
多くの人は、嫌だと思うんですけどね。
じゃあ「嫌」ならば、「自分の住環境を良くするために」「自分で動く」しかないんですよ。
奴隷生活をとりあえず受容するとしても、その枠内で環境を良くしようと工夫したり、ですね。
好機があれば、脱出して、自由を得るとか。
これは、自分でやらないと、誰も助けてくれません。
戦争でも、「自国を守るための戦いをする意志のない国は」「国際社会から見捨てられる」でしょう。
「あっ他国からの侵略も、受け入れるんだ?」「じゃあ何も問題ないな」という判断が発生するからです。
で、ここまで書いて、注釈つけますが、
私は怠け者ですので、「好きこのんで」「アクティブを推奨している」わけではないんですよ。
ゲーム理論的な合理性に基づくと、
「自分の幸せのためのこだわりがあるならば」「自分で動かなきゃ」「永遠に状況変わらない」という状況判断があるから、
そうせざるを得ないということです。
そうせざるを得ないとは、「パッシブ(受動的)」「アクティブ(能動的)」の両刀使いの二層で、やっていくということですね。
この両刀の、どっちかひとつ選ぶ必要はハナからありません。恐山のお坊さんは、アクティブを棄却する必要を感じているようですが。
一般的には、
「受け身」で「幸せを感じた経験があるから」(それも圧倒的安寧を)
「アクティブなんて、リスク高いだけで、馬鹿なはみ出しだ」みたいな感じなんでしょう。
パッシブな幸福を期待するのは、もう夢の中のお話になってしまうので、
特に否定もしないで、沈黙するとします。
おわり