【趣味日記】自分の言葉を見つけよう

ちょっと観念的なことを書きます。

 

一般的には、誰かが「AはBである」と言ったとき、

 

その言葉に対して、「その通りだ」とか「それは違う」と感想を言ったりして、

 

「みんなが腹落ちする言葉・結論」にたどり着く営みがあります。

 

その言葉は中庸である場合がほとんどなんですが、

 

この中庸の地点を「O(オー)」とした場合、

 

世の中には色んな人がいますから、

 

「O」から左方向に離れている人も、右方向に離れている人も、両方いるわけです。

 

ここで注目すべきは、

 

左方向の極地点を「L」、右方向の極地点を「R」としたときに、

 

「みんなが腹落ちする言葉・結論」が「正しいっぽいね」と合意を得た場合、

 

「L」にいた人は右方向に移動し、「R」にいた人は左方向に移動することになります。中心に向かうということです。

 

何が言いたいかというと、

 

「ひとつの正しいっぽい結論を言葉で単一的に表現されたとき」

 

左右の極が包括する範囲にいる、あらゆる位置の人にとって、「移動の作用が異なる」ということです。

 

しかし、前時代的な言葉の使い方によると、

 

例えば「ヒトラーは偉大なり」という言葉が発せられるとき、

 

期待されているのは、ある極「H」へ、「みんな集まれ」の移動の作用です。

 

「この点が安全で正しい」「だから、みんな集まるべきだ」という趣旨ですね。

 

「みんな集まれ」は、わかりやすい反面、各個人のニーズに合致していないし、そもそも、「この極が正しい」ということは、理からいって、まずありえません。

 

ありえない正しさを、なぜ主張するかというと、そういう旗を掲げることによって、より都合良く支配できるからです。

 

で、その旗が「正統性がある」ということを事後的に証明するために、ある極「H」から遠い位置にいる人への弾圧や攻撃ということが起こります。

 

「ほうら、『H』を目指さない奴は、痛い目に合うだろう?私は正しい」

 

となりますが、これは古い政治的な小手先のひとつなので、「小手先のひとつとしてこういうやり方があるんだなぁ」と知っておけば大丈夫です。

 

で、実際に安全なのは、「中庸」です。普通が最も無難です。

 

もしも困難が起こったときも、「外側」極にいる人から先に削られますから、「危機を察知してから行動を取っても」「間に合う」だから安全です。例えばイワシの大群の中心が安全であるように。

 

ただし、「中心」「中庸」は安全だけども、「大きな利益は得られません」。ローリスクローリターンです。

 

なので、定石としては。

 

・「自分がどうでもいいと思っている事柄に関しては」「中庸を目指すべき」

・「強いこだわりがある事柄に関しては」「そのこだわりを大事に育てて、利益を得るべき」

 

というものになります。

 

もし、なんかの支配者の意向に振り回されることを辞めたいのであれば、この定石通りに動くのが、効率的です。

 

最強なのは、「あらゆる軸に対して、両極の全範囲をマスターする」ですが、これは人間離れしているので、現実的に無理そうです。

 

そして、支配者をとりあえず度外視して、「自分個人としてどう動くか」を大事にするのであれば、

 

「人それぞれによって、最適な言葉は変わってきます」

 

例えば、「保守的な右翼」の人が中庸を目指すのであれば、

 

「国民の利益も最低限確保するために」「広い視野を持って、中期目標を策定し、効率的に実行していくことも大事だ」

 

という言葉が最適になるし、

 

「リベラルな左翼」の人が中庸を目指すのであれば、

 

「苦しみの中、力と力の奪い合いの営みをする人達を、意識から排除せずに」「ある程度、力で以て押さえつけるコミュニケーション法を身につけることも大事だ」

 

という言葉が最適になります。

 

それぞれの位置にいる人たち、ひとりひとりにとって、最適な言葉は変わってきますので、

 

基本的には「自分の力で、自分に最適な言葉を見つける」ことが必要になってきます。

 

そうしないのであれば、全員にカウンセラー、あるいはコーチを付ける必要が生まれるからです。まぁそれでもいいんですけど。

 

で、「中庸」が無難だと言いましたけど、

 

みんなが中庸に殺到しても、極担当者がひとりぼっちで、間がスッカスカになるので、

 

自然分布でいいんですけど、

 

「右にいこうと思ったら右」「左にちょっと動いた方が良いときにちょっと左」みたいに、

 

チョコチョコ動いたり、あるいは、アクロバティックにびゅんびゅん動いてもいいんですけど、

 

基本は「言葉というプログラムコードを吐くということは」「自分の移動手段である」ということを踏まえて、

 

その時々に、行きたいところに行く手段として、言葉を操るというやり方がある、あるというか、私はそうやってるというだけです。

 

みんな集合は、イエス・キリストさんもやりましたけど、

 

まるで「救いの緊急避難口があるかのような」言説は、当てにならないことが多いです。

 

一方、モラルとしてのキリスト教の教えは、移動手段として、使えると思います。

 

避難口なんて、ないと思った方がいいです。

 

常に、煮詰まってる状況で、ずっと続いていくという

 

終わりが無い前提の、たゆまぬ道だと私は見ています。

 

おわり