【近況6/20】恐怖心ドライブ

一般的によく知られていなくて、かつ、非常に強い方法論として、

 

「ネガティブな感情を推進力に変える」があります。

 

普通(ボヤ~っとして生きている場合)は、「ネガティブな感情は不快(誰でもそうです)」ですから、できるだけ避けよう、減らそう、という志向になります。

 

しかし、その嫌な感情を、「利用しよう」という発想の転換を得ると、その人はドンドンドンドン、前進していきます。

 

そのような最も有名なエンジンのひとつが「恐怖心」です。

 

例えば、ある広い草原にあなたがポツンと立っていたとして。

 

自分の位置は、南北に延びる長い直線(ボーダーライン)上にある。

 

西の方角を見やると、曇天の下、何やらボコボコと異臭を放つ沼や、大量の戦士の屍や、それを突つく黒いカラスが飛び交っている。

 

それを見て、率直に「怖い」と思う。嫌だな、この方向に行きたくないな、と。

 

一方、東の方角を見やると、太陽が輝く晴天で、柔らかそうな芝生の上に花が咲き、小鳥が歌うようにさえずっている。

 

とても心地よい。まるで天国のようだ。

 

この状況で、ほとんどの人は東の方向に行くと思いますが、

 

その場合、それは「恐怖心ドライブで動いている」という現象になります。

 

東の心地よいフィールドの奥にいくと、綺麗な川を見つけることができ、そこで過ごすと平和と安らぎを感じることができる。

 

もっと、もっと、東に行こう。そうしたらもっと環境が良くなるはずだ。

 

というように、これを客観的に見ると、

 

「非常に、人間を特定ベクトルに向かわせることにおいてコントロールが効きやすい」

 

「しかも、その燃料は、ネガティブな『恐怖心』である」

 

嫌なものを消費して、迅速に特定方向に前進することができる。

 

こんなスーパーウルトラ効果のある、強い操作方法です。

 

「操作する者(例えば神)」は、人々に「東に行って欲しい」

 

「操作される者」は、東に行くことで「恵みを得る」

 

操作される人目線で言うと、「これは神のお導きだ」「怖いものは無くならないけど、自分はそれに背を向け逃げれば良いんだ」「この道は正しい」という認識をしやすい。

 

管理における立場が上・下の存在が、共に利害一致して「一体感があり」、しかも、上の者が「恐怖の与え方」を工夫すれば、自由自在に近い形で、動かすベクトルを操作できる。

 

率直に便利ですね。

 

ただやっかいなのが、欲張って、そこに再現性を求めてしまいがちになることです。

 

スタート地点のフラットな東西のボーダーライン上で感じた、「最初の恐怖心」・・・

 

それは、ちょっと東にいけば、解消されたものでした。

 

でも、「まだ恐怖心はゼロじゃないから」「もっと東に行こう、もっと安心しよう」

 

そうすることが、「正しい道」なんだ。

 

と、ここまで書いて、これはイスラエルの姿を示唆しているようだなぁと思いました。

 

「恐怖して」「それに背を向けて、進歩の道を邁進する」

 

この至極単純なプログラムによって、イスラエルは技術的に高度な軍事兵器を開発・製造・運用し、恐怖の源(ガザのパレスチナ人)を破壊し続けています。

 

一旦、恐怖からの逃避・・・「進歩的な技術発達」「神との一体感」「この道は正しいという確信」の果実の味を覚えてしまうと、

 

どうしても、「もっともっと」「もっと東へ」となってしまうんですね。

 

これ自体、結局管理されているのであれば、私も問題ないなと思うのですが(事実、恐怖の消費によって、人類にとっての脅威は取り除かれつつある)、

 

そこに「再現性」を求めると、

 

「燃料である」「恐怖の元は、絶対に必要だな」という固定化が起こります。

 

怖がる必要の無い対象まで、ずっと「怖い物であってほしい」という作用が働く、結果、その対象は「恐怖をかきたてる表情を維持し続ける」ということになる。

 

恐怖源泉の固定化、が起こるんです。

 

つまり、イスラエルのケースで言うと、「悪逆非道なハマスは、排除対象だが、同時に、怖い対象として在り続けてもらわないと困る」

→結果、「ハマスをずうっと殺し続ける」作用を持つ

 

という構図です。

 

さあ、恐怖ドライブの実状を聞いて、いかがだったでしょうか。

 

ネガティブ感情の活用、肥やしにするというのは、私も若いときにやりました。

 

私の場合は「恐怖」じゃなくて「怒り」です。

 

なぜならそれは「自分を救う」観点において非常に効率が良いし、

 

実際、ポジティブな感情なんてありませんでしたから、「燃料がそれしかなかった」という事情もあります。

 

私は「怒り感情」ドライブで、それを御して、情報処理周りの技術を発達させました。

 

それが一段落終わったら(当初から自分のピークは20代前半だと思っていたので)、もう、「怒ることはしなくなりました」

 

再現性を、求めなかったということですね。

 

現在は、ほとんど怒る機会がないです。大体のことは、「なんだよ~」「まぁそういうこともあるだろう」でスルーしています。

 

もう、難局は乗り切ったので、怒りエンジンを吹かす必要性が無くなったからですね。

 

イスラエルは、そのピークとピークアウトについて、全く見えていないように思えます。

 

この日記の一行に満たない単純なプログラムコードで、高度な技術を育み続け、恐怖対象を保全しつつ、殺し続けるという。

 

「もう、『今は』そうしなくてもいいんだよ」ということを、

 

どれだけ丁寧に説明し、納得してもらえるか、が鍵だと思います。

 

私は再現性って、怖いなぁと思っています。

 

ずうっと東に進み続けるのって、自由がないですしね。

 

おわり