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ヤフーニュースやツイッターで、なにやら「学校で古文を習うのは無駄」という話題が流行っているようです。

 

ほほぅ。

 

これに対して、良識のある人は、「実生活で役に立たないような無駄なことでも、やってみるとけっこう人生が豊かになったりするよ」みたいなソフトな反論をしているようです。

 

私自身は、古文というか、中学から勉強路線からドロップアウトしたので、古文は(学ぶ機会があるのに)学んでなかったです。

 

ただ、古文に対して、興味はあるんですよね。

 

言葉使いからして、現代語しかしらない私からすると、古文は外国語みたいで。

 

英語でも、何でも、その言語の「型」って、その土地に住んでいる人の文化的な面に根ざしていて、そのエキゾチックな文化差を楽しめるというか。

 

例えば、イギリス英語とか、京言葉とか、その「型」は使う人の性質を反映するかのように、めっちゃ皮肉っぽいじゃないですか。それが「らしく」て面白いです。

 

なので、古文も、よくよく味わってみると、その当時の日本の人の考えとか、嗜好とか、タイムスリップして味わえるような気がします。

 

とここまで書いて、最初に書こうと思ったことから外れてるんですけど、

 

つまり、「古文は楽しいから、楽しめる人にとっては無駄じゃないよ」となります。

 

最初書こうと思ったことは、「古文無駄?問題」からの派生なんですけど、

 

基本的に「学校」って、「無理矢理」じゃないですか。

 

「学んでることが、無駄かどうかなんてどうでもいいから」

 

「とりあえずやれと言われたことをやれ!テストでスコア出せたら合格!」

 

「まだ未熟な子供は、大人がやれと言ってることを、素直にやってりゃいいんだ!」

 

みたいな、これって「スパルタ」でもあるし「思考停止路線」でもあるんですけど、あながち悪い側面だけではないなと思うのです。

 

それは2点あって、

 

ひとつは、「子供のうちから『仕事』を身につけることができる」です。

 

社会に出て、なんかの会社に入って、

 

お客さんに御用伺いしたり、上司にプレゼンしたりするかと思いますが、

 

どういうシチュエーションであれ、

 

「わたしはわたしの好きなように、やりたいんです!やらせてください!」

 

って言っても、通用する場合があんまり無いですよね。

 

お客、上司、雇用主、異なる立場・異なる性質の相手のニーズにマッチするように、ある意味、「自分を殺す」ことも多く求められてきます。

 

顧客の要望通りにするのは「自分にとって無駄に思えるから」やりたくない、とか

 

きのこの山」と「たけのこの里」を買うときどっちにしようか悩むのは無駄だろうから、「一本化」しましょう、とかいう提案してたら、お菓子会社では通用しなさそうです。

 

そういう、自分目線でも理不尽に思えることを、グッと我慢して、きっちり結果を返していく、というのは子供に対しての立派な訓練になっていると思います。

 

「古文を学べよ!テストで良い点とれよ!」と言われて

 

「古文の価値がよくわからないけど、とにかく大人(顧客あるいは上司)がそう言ってるんだから、やるか!」

 

と決意して、行動に移して、結果を出す、というのは教育上よろしいと思います。

 

子供の時に好きなことやるのも大事ですけど、好きじゃ無い事を無理矢理やらされる環境というのも、貴重な場なんじゃないかと思います。

 

「自分が何が好きなのか発見できて」「好きじゃ無いこともやれる」

 

そういうハイブリッドな子供教育がいいんじゃないかなぁと想像します。

 

で、もうひとつの点は、「大人への信頼」です。

 

大人「(学ぶことに何の意味があるのか不明な)古文を学べよ!」

 

子供「はい!わかりました!」

 

というやり取りは、前提として、両者に信頼関係がないと実現できませんよね。

 

これって、社会的にかなり良い状態なんだと思います。

 

子供が、大人の能力的優位を認めて、その判断に対しても、信頼をしている。

 

これって健全な社会だな、と思うわけです。

 

もちろん、例えば

 

大人「あの国の民族を浄化しろよ!」

 

子供「はい!わかりました!」

 

という思考停止、暴走もありうるのですけど、

 

「思考停止しているから疑わない」と「信頼しているから疑わない」は別物なんだと思います。

 

「子供は思考はするけれど(疑問はもつけれど)、大人を信頼している」

→「だから子供は、好きじゃないことも言われた通りにやる」

 

っていうのが、いいなぁと思います。

 

特に、私は、子供時代、「大人全員へぼいな」と完全に不信状態でしたから、身を以てわかるのですけど、この不信状態は健康じゃないです。

 

だから、結論としては「(学ぶことに何の意味があるのか不明な)古文であっても、大人を信頼して学ぶことができるような」「信頼関係の土壌づくり」ができたらいいなぁと思っています。

 

つまり、論点が「古文」から「信頼関係」にずれているのが私が今書いていることです。

 

「学校で古文なんていらねぇよ」

 

という解釈よりも、

 

「学校で古文を素直に学ぶほど、子供と大人が信頼関係にある(あった)んだなぁ」

 

「そういう関係づくりをしていけたらいいな」

 

という解釈をした方が、建設的かなと思います。

 

あと「余計なことは考えるな!とにかくこれをやれ!」

 

という力業も、個人的には、アリかなと思います。

 

特に子供時代の、訓練としてです。

 

おわり