A diary12/1

12月に入り、いよいよ冬だな、と新たな季節の入り口を迎え入れている気持ちです。

 

今年は、まぁまぁ長かったなと思います。

 

ツイッターを見ると、子供時代と、壮年時代では、日にちの流れの体感速度が違う(子供時代の方が長く感じる)らしいです。

 

たしかにそうかもなぁ、働いてたとき32歳~39歳くらいは、短か・・・いや、長かったなぁと思います。

 

最近ではタイパと言う言葉が若者に流行っているらしく、「時間を無駄に過ごした」というような感覚があるようです。

 

時間を「楽しむためのもの」と見るならば、「時間の無駄」という捉え方もありえますが、

 

そもそも人生を「苦行」「試練の連続」と見ている人にとっては、時間が早く流れると「今や苦しみが過ぎ去ってよかった」「よくしのいだ」とポジティブに思うことができます。

 

楽しいことがあったら「あぁ、そう、(私は今)楽しいんだな」と、ちょっと他人事のように、棚からぼた餅のラッキーのように、冷めた目で見るくらいになると、苦しみの泥沼に良い感じに浸って漬け物みたいになっていいんじゃないでしょうか。

 

この辺も、現実に対する「受け」の問題になってきますが

 

嫌な現実を消極的に「拒否」するか、積極的に「さぁ受けようか」とするかによって、体感は明らかに変わってきます。

 

私目線では、「拒否」するというのは、戦場で敵に背を向けて敗走するのと等しく、脅威に対して無力になり、単純に深い傷を負うリスクが高いから、「やらない」だけであって、

 

もし逃げきれるのであれば、喜んで逃げます。ただ、逃げ切れるというシチュエーションが想像できないので、それなら勝率の高い受け(積極的に臨む)を選択しているだけです。

 

つまり、私にとっては「当然のこと」なのですが、

 

それが「当然ではなく」「バカバカしいこと」と見える人とは、つまるところ、受け方を知らない、技術として持っていないということなんだと思います。

 

あるいは「自分の生殺与奪権を他に委譲しているから」→「自分でなんとかしようというやる気や、機会をそもそも認識していない」かもしれませんね。

 

ということは、そもそも「やってるゲームが違う」ということですね。

 

自分の生殺与奪権を他に委譲する・・・

 

私の場合は、「手首から血が流れ続けて失血死する自殺シミュレーション」をして、「本当に自分は死にたいのかについてよく自問して」→

 

”死にたくない”という小さな女性の声を聞いて

 

「その意思は拾い上げるだけの価値がある」と判断して、最初の1歩を踏み出しました。

 

つまり、「自分を生かす」という判断をして、動き出しているということです。

 

それによって、何らかの大小様々な障害、困難、あるいは敵などが現れることの想定はされますが、「それに関わらずお構いなしに」「生きるという意志を貫く」「絶対に負けない」という方向性を持った、たまたまそう思ったという経緯があります。

 

そして41歳の現在、私は生きています。ニート暮らしができるというラッキーもあり、あとは自分のがんばりもあり、特に大きな外傷もなく、生きることができていて、よかったなぁと思います。

 

これとは違うゲームをしている人にとっては、おそらく「自分の意志で生を選択している」のではなく「自分は他者によって生かされている」という認識なんだと思います。

 

これは謙虚さでもあり、同時に、「他者を自分の生のために使役しよう」という傲慢さも内包しています。

 

私は「神様、私に利益供与してくださいお願いします」という意識はあまり持っていないですが、これは「そこまでずうずうしくなれない」「能力的に自分より格が明らかに上の神様を使役しようという発想がない」からです。

 

同時に「自分の力でなんとかしてやる」という傲慢さも内包しています。

 

謙虚と傲慢のトッピングの裏表の違いで、全く違うゲームになるようです。

 

どっちが正しいか?これは、どっちもアリなんだと思います。あるいは、どっちもナシとも言える。

 

だから、自分と違うゲームの人の邪魔になるようなノイズは、あんまり出すもんじゃないな、と反省しました。

 

今日は日記を書く前に「今日はやさしい日記を書こう」と思っていたのですが、なかなかそうならず、「あちゃあ」と思いつつ

 

どういうゲームプレイヤーであっても、やりがいを持って、納得ができる形になることを願っています。