X(ツイッター)上で、ひろゆきさんと高須院長が、弱者を救うことに関してバトルを繰り広げたとのヤフーニュースを読みました。
バトルの元となったツイートは、ドワンゴの川上さんという方が、「経験上、弱者を無条件無制限に救おうと言う人は、自分を犠牲にして他者を救ったことがない人だ。自分は、自分のすべてを犠牲にしてまで他者を救うことは諦めた人間だ」という趣旨の発言だそうです。
これに対して、ひろゆきさんは同意して、「弱者を無条件に救おう」という人はだいたいろくでもない人だみたいなツイートをしたようです。
高須院長はひろゆきさんに反発して、「弱ってる者を無条件に助けるのは、医道の基本だ」というツイートをしたそうです。
私は、弱者というか、「困っていて、助けを求めている人」がいたら、「強くて余裕のある人」が助けたほうが良いと思っています。
逆に言うと、余裕があるのに(助けようと思えばできるのに)、困ってる人を助けないというのは、なかなかの嗜虐趣味がある人だなぁと思います。
「おれは嗜虐趣味があるから、助けずに、困ってる人の姿を眺めつつ酒を飲みたいんだ」という人ならば、私は「あぁ、そういう人なんですね」と納得して、この人は助けなくてもいいや、と思います。
しかし、こういう性的嗜好を持つ人は少数派だろうし、普通の感覚の人は、「困っている人がいたら助けたい」という意識があるんじゃないでしょうか。
なぜこの考えが普通かというと、みんな例外なく誰しも、「自分の力だけで生きてるわけではなく、他者から助けられて生きている」という事実をありのままに認識しているからです。
自力オンリーでは生きられない、周りに迷惑をかけたり、迷惑かけられたりして生きているのだから、「自分のためだけに生きる」ことがけっこう戦略として破綻しているわけです。
だから当たり前のように、困っている人がいたらできる範囲で助けましょう、というのは普通だと思います。
ここで問題は
・他人を助けるほど、自分に余力がない
・助けるのはコストが大きくかかる
ことによって、助けたいと思っていても、「現実的に助けるのは不可能なケースが多い」ということです。
「現実的に助けるのは不可能なケースが多い」から、「じゃあ、助けないようにしよう」と決めつけるのはちょっと頭の使い方が初級者だと思います。
「現実的に助けるのは不可能なケースが多い」から、「できる範囲で助けよう」もしくは、「社会の構造改革により、助けられるケースを増やそう」が素直な頭の使い方ですね。
「全く助けないで、自分と身内の利益だけを追い求める」ことは、万人誰でもできる簡単お気楽コースです。私もやろうと思えばいつでもこれはできます。
こんな簡単なコースに飛びついてしまう人は、本当に心に余裕がないんだなぁと思います。余裕がなくてお気楽コースしかいけない、というならば、それは正しい判断だと思うので私は尊重します。
でも例えば、会社経営者で、100億円の現預金があるとした場合。
そのうちの1億円を寄付したって、生活が脅かされることは、ほぼないですよね。99億の貯金があれば生活には困らないでしょう。
だから、1億円くらい、寄付することなんて余裕のよっちゃんでできるでしょう。
もっと言えば、5億円くらい寄付しても大丈夫でしょう。
5億円あれば、生活困窮者を何年間で何人救えますか?
10年間として、1年あたり5000万円ですよ。
50人だとしたら、100万円です。
つまり、5億円あれば、例えば年収180万(月収手取り15万)の50人に対して年間100万円の支援ができるんですよ。
50人が、10年間、年収280万(月当たり手取り23万円以上)になります。
なかなか、まともに暮らせる水準になりますよね。私が100億持ってたら、これ即やりますよ。
この投資金は、おそらくほぼすべてが消費に回され、経済成長には直接寄与しないかもしれませんが、この50人は、支援を受けることで、少し希望をもって生きていけるんじゃないでしょうか。
50人が「この世も捨てたもんじゃないな、がんばってみよう」と、元気に働けるなら、これは大いなるベネフィットだと思います。それぞれの努力で、生産性向上にも、ちょっと貢献できるかもしれません。
富裕層の人が、この程度のことが、現状、できているならば、私は不満はないですが、逆に、この程度の簡単な支援ができていないのならば、「あなた、なに考えて生きてんの~?」と不思議に思います。
そういう窓口というか、ポータルサイトみたいな資金移動の経路が確立されていないのが、一番の課題かもしれません。