A diary 8/19その③

狩猟民族と農耕民族の違いを考えてみました。

 

日本は農耕民族ど真ん中で、農耕を営むためには、スタンドプレーでは成り立たず、嫌でも嫌でなくても、とにかく協力しなくてはいけない状況です。

 

不作などでどうしても首が回らなくなった村民が、隣の村民を殺害し、収奪するような事例もあったようですが、それはイレギュラーな事件であって「好ましくない」、理想は田畑からの作物の収穫に頼って生きていくことだという価値観であっただろうと想像します。

 

みんなで協力して農業を営むのだから、誰かが特別に富むことや、作業において楽をすることは「不平等」であるとして、不満の種となっていたでしょう。

 

そういう不平等を根絶するために、出る杭にならないように慎んで、できるだけみんな一緒がいいね、という価値観が染みついていったのだと思います。

 

その文化が腐ってくると、「他人に意地悪をして、足を引っ張ること」に熱心になったりするのですが、根本的には独立自立してやっていくのではなく、集団で相互依存して、協力体制を(少なくとも表面的には)維持していこうという志向だと思います。

 

一方、狩猟民族の場合。

 

私はよく知らないので、狩猟生活をイメージしてみました。

 

収集物としては木の実とか果物とか、それだけではお腹がいっぱいにならないので、動物を狩猟して肉を食べなきゃいけません。

 

鹿一頭を狩ったら、5人家族が24時間空腹を凌げるくらいの肉が獲れるでしょうか。

 

翌日、また何か動物を殺さなければいけません。端的に表現すると「日雇いで動物を探して殺す仕事」でしょうか。

 

想像するに、けっこう動物の命を奪う行為に、慣れてきますね。「対象を暴力で殺して奪うこと」が当たり前の日常です。

 

これに慣れた狩猟人は、「あぁ、この世は殺して奪い合いをする世界なんだな」と思い込んでも、その世界観に浸ってしまうことも、まったく自然なことで、そのことは責められないでしょう。

 

歴史において、奴隷制というものがありました。

 

今日の人権感覚から言うと、「他民族を捕縛して、自由を奪い、強引にこき使う」ようなことは「ひどい」行為です。

 

しかし、毎日、殺して奪い、殺されないように先に殺すという生活に慣れてしまった狩猟人の目線で言うと、「得体の知れない他民族を殺して奪う」ことに躊躇を覚える要素というのが全くありません。

 

むしろ、「殺さずに、生きた状態で労働力を搾取」することは、彼らにとって「ゆるやかで穏便な収奪」として認識していたかもしれません。

 

奴隷が使用人を恨み、怒りを表現したとしても、使用人の狩猟人からすれば、「怒るだろうけど、でも、この世ってそういう(殺し合い奪い合いの)ルールじゃん?」と言うかも知れません。

 

私は、狩猟民族をルーツに持つ、欧米の白人を批判したいのではなく、「どのような環境で、どのような価値観や文化が刷り込まれたか」という「事実」を正確に把握した上で、現代における人種間の相互理解が進んだらいいなぁと思っています。

 

これは、中国との付き合い方にも関係してくると思います。

 

仮に、最悪のシナリオ「米中戦争」などが実際に起こったとしても、その前提として、相互理解が深まっていれば、「無駄死に」が減るだろうと予想します。

 

効率よく犠牲を活用しよう、というと天使っぽい残酷さがありますが、

 

犠牲を出すことを回避できないケースがありうる、と想定をした上で、「最悪(無駄)を軽減しよう」という小細工も、あった方が良いと思います。