悪意について

私は悪意がよくわからないんですが、破壊は昔から得意でした。その破壊の根源は悪意だと思うので、実際には悪意はあるけどよくそれが見えてない状態なんだと思います。

 

私なりの解釈では、悪意は、苦しんでる自分と、相手を強制的に共感状態にしたい気持ちなのではないかと思います。

 

私は元来、共感能力が低いので、自然と、強制共感意欲である悪意も低くなっています。

 

しかし、世の中には共感能力が大変高い人もたくさんいます。そういう人は、自分の中にある悪意や、他者が持つ悪意に関して理解が深いので、それをコントロールする技術も身についているんだと思います。

 

悪意がなぜ悪いかというと、「苦しんでる自分を救う」という目的に対して、対処療法的な効果しかないことと、周りも苦しめるという社会的なコストも大きくなる点だと思います。

 

逆に言うと、もしも悪意が、「根本的に自分を救う手段になる」かつ「社会的なコストを低くできる」条件が揃ったなら、悪意は必ずしも悪くないと言えると思います。

 

そういう意味で言うと、闇の世界で治安維持を行っている暴力団の人は、その条件を満たしている場合もあるかもしれません。

 

ただし、今は暴対法があり、「根本的に自分を救う手段になる」条件を満たしにくくなっているので、悪意を手段にして社会に居場所を見つける、ということも成立しにくくなっているのだと思います。

 

じゃあ、悪意を減らせばいい、と思うのですが、そう簡単にはいかないのがリアル社会です。

 

悪意は必ずしも必要ではないけれど、破壊は必ず必要だからです。創造と破壊のバランスの匙加減を、私は理解していません。それができないと政治をおこなうことは無理でしょう。

 

どのような破壊が好ましいか、その方法論を確立しないと、現在いる暴力団員を悪意から解放することはできないでしょう。

 

その情報を持っている人はいるのですが、その人にお任せでいいのか、というとお任せではちょっときついかもという印象を持ちます。

 

今のままでいい、という判断も有力な選択肢です。

 

しかし、悪意を持つことで苦しんでる人、その悪意によって苦しむ人、それぞれを無視することは違うんじゃないかな、と思います。