死という足枷

最近、日本でも自爆テロのような行動を取る人がいます。

 

死んでも怖くない人に対して、「なんでもやるので怖い」、「常識的にやらないだろうなと思うようなことをやるから怖い」という印象を持つのは自然な事だと思います。

 

ただ、私は死ぬのはちょっと怖いけど、いつ死んでもいいと半分思っています。過去に「世界は有限か?」という問いに対して「有限である」という答えを得ることができたので、「あぁ、それなら死んでも大丈夫だな」と安心したからです。

 

もし無限であるならば、「死ぬわけにはいかない、最高出力で努力し続けなければいけない」という意思決定をせざるを得ないので、本来怠け者である(だらだら怠けることを幸せと感じる)私にとって、「世界有限or無限問題」はとても重要な問題でした。

 

もう一つ、「死んでもいい」理由として重要なのは、「死にたくないという大前提」においては、自由なアクションができなくなる、死なないようにする目的のために資源を費やした上で、”残りカス”の少ない資源で、「やりたいこと」をやることになり、ただでさえ小さい資本が、さらにしぼんでしまうという致命的な無力化現象が起こることを避けるために、「死んでもいい」状態を作り出す必要があったからです。

 

あとは、リスク管理の点でも、不確実な要素がまだある状況(リスクを削減できていない状況)において、強い行動を取らなければいけないとき、「死にたくない気持ち」があると「恐る恐る行動する」というへなちょこな行動しかとれなくなり、結果として、状況を打開できない公算が高くなります。

 

自分の行動なんて、大河の一滴で、小さい力ですが、その一滴が渾身の一手を打つと、大きな世界は変わる。ということを知っているので(構造的にそれは可能だと知っている)情報力を高めて力を加えるべき「点」を特定し、全力でそこに一手をぶち込む、という戦略?戦術?が私の生命としてのメインな活動形態ですね。

 

例えば地下鉄の天井が崩れて、狭い暗い空間に人々が閉じ込められてしまったとき、みんな「怖いよ、外に出たいよー」と思うでしょう。そういう時に、Aさんが渾身の力で、指が1本通るくらいの小さい穴を壁面に穿つとします。そうするとどうなるか、Aさんがみんなに協力を仰ぐことをせずとも、小さな穴に気づいた数人が自発的にその穴を拡げます。握りこぶしくらいの穴になったら、多くの人が「外に通じてるぞ!」と喜び、全員協力してその穴を数の力でガンガン拡げるでしょう。そうして人が通れるくらいの立派な通路が出来上がり、めでたく全員脱出できましたとさ、となるのです。

 

歴史上の例でいうと、ライト兄弟が渾身の一撃で、「飛行機が人を乗せて一定距離飛行し、安全に着陸できた」という"事実"を作り上げます。その穴が開いたなら、大勢の人がそこにガンガン突っ込んで、その後めでたくジャンボ旅客機、マッハで飛ぶ戦闘機が生まれました、あとついでに宇宙空間にも行けましたとさ、となっていますね。

 

こんなこと、構造的には大したことないのに、既存の枠にしがみついてしまう人が多くいるのは、何か未知の細工が施されているんだなーと感じます。

 

冒頭の自爆テロに関しては、怖いなーと感じつつ、「自爆テロをしない他の選択肢」を犯人に提示することができなかったという"事実"を、受け入れて、それを変えていこうと注力するのが模範的な発想だと思います。