包括路線でがんじがらめ

包括的な方法論を、極限まで研ぎ澄まそうとすると、

 

「メンバー全員すべて把握している」状態が維持され、

 

その枠内で、「任意の目的を達する」ようなカラクリが発動されます。

 

そのいろいろな在り方によって、

 

地獄があったり、不平等があったり、暴力的な破壊があったりします。

 

で、「メンバー全員すべて把握している」といっても、

 

そこに変数があると(=把握しきれない要素があると)、

 

「どうなってんのコレ~!」という脅威が出現したりして、

 

色んな複雑だったり強力だったりする操作が必要になり、

 

手持ちのカードがべらぼうに多彩になっていったりします。

 

そういう意味では、

 

「なんかめっちゃ複雑で、大海を操船術で上手くやってる(あるいは上手くやってない)ように見えるけど」

 

「実際は、大きな流れに誰も逆らえない」

 

ある意味「決定論的である」と言える状況になっています。

 

なるほど~つまり、「どうあがこうと無駄」と「がんばればなんとかなる」が同時に両立する世界観ですね。

 

決定論的な世界」を眼前に捉えて、何らかの解釈する「私」や「あなた」も、その枠内から逃れられていない、ということです。

 

ただ、唯一の救いは、

 

その「決定論的な包括領域」は、固定じゃないってことです。

 

ガワ(側)・形式は固定だけど、背景・中身が固定じゃない。

 

なんらかの影響(出所不明の脅威or恵み)が常にやってきている。

 

だ~か~ら~こ~そ~

 

形式にこだわってもしょうも無いと、私は思います。

 

ただ「お前ら全員、形式にこだわるなよ!」と言っているわけではありません。

 

これについて、「誰かが」「どう思っても」それに口出しはしませんが、

 

私は、「形式なんて蝉の幼虫の抜け殻だろうが!」と思っている、という声明発表です。

 

幼虫あってこその、抜け殻なので、

 

幼虫がそう在るならば、形式の「抜け殻」はこうなるよね、

 

あるいは

 

「抜け殻」はこうなら、幼虫はそう在ったんだね、と言えるだけであって、

 

「この抜け殻」にフィットするような幼虫であれよ!っていうのは

 

明らかに時系列的な順序が狂ってます。

 

つまりは

 

「前と同じような幼虫であれよ!」ってことなんですけど、

 

私は時系列的には一人称視点しか持っておらず、俯瞰できていない者なので、こう言っているのですが、

 

包括的世界自体が「なんちゃって包括」であること、

 

つまり、「何も無いところからの影響」は有るって知ってるので、

 

そんなに視野狭窄な考えでもないぞ、と思っています。

 

この日記、自分で書いてても、読んで意味伝わるような表現になってないな(わかりにくい不親切な表現だな)と思いますが、

 

わざとわかりにくく書いてるんじゃなくて、

 

扱う対象が抽象的すぎて、具体例が地球上に無いので、こういう書き方になっています。

 

つまり「なんか(意味不明なこと)ゆってんな」と思ってもらっていいです。

 

でも、これってとても重要なことなので、

 

とりあえず日記に書いています。

 

ふんわりした感じで、お送りしました。

 

おわり

元鞘風の流れ

前回、「やりません」宣言、

 

「関係を切断したいです、離れてください、さようなら」の意思を出したところ、

 

けっこうゴタゴタゴタゴタしたのですが、

 

「関係を切る」操作、もしくは、

 

「地球の物質すべて解消」操作の希望を出しても、

 

「すぐにはできない」ようなので、

 

どういうカラクリなのか詳細は私にはわかりませんが、

 

とりあえず、長いスパンで「自分という存在」を捉えた方が良いようなので、

 

一旦、「決別宣言」したあとに、「やっぱり協調路線を維持します~」ということになりました。

 

「元鞘」ですね。

 

ただ、先方は「なんでコイツ(私)の要求に振り回されなきゃいかんのだ」という禍根があるかもしれないですが、

 

禍根があろうとなかろうと、

 

関係切りたいときは「離れて見えなくなって消えてください」と率直に言うし、

 

「組めない」のであれば「組みません」といいますし、

 

ただ、あるがままにあるだけってことなので、

 

「禍根があるから、しこたま攻撃しよう」でもご自由になさってください、というスタンスで、

 

とりあえず、協調して、みんなが上手くいくように

 

穴にならないように、がんばるか~と思い直しました。

 

「はぁ、物質はやく無くならねーかな」とか思いながら、

 

できることをチコチコやろうと思います。

 

お騒がせして済みませんでした。

 

おわり

やらない宣言

前回の日記で「主体性の意味」は、「やる、やらない」の意思表示による仕分けの効率化だと書きました。

 

で、私は「やります」だったのですけど、

 

総合的に考えて、結局「やらない」ことにしました。

 

何をやらないかというと、大きな流れに歩調を合わせて、協力することをやらないということです。

 

「さよなら~嫌なので離れてください」ですね。

 

ただ、この世界は「塵ひとつ逃さない」仕様になっていますので、

 

地球あるいはもっと大きな括りのグループから抜けることができたとしても、

 

別の(もっと質の悪い)別グループに取り込まれて、苦労するかも知れません。

 

グループの総数は不明ですが、100あろうが1000あろうが、

 

とりあえず「見」をして、もし「このグループ面白いな」とか「魅力があるな」と思ったら投資しようと思います。

 

地球を含むグループには魅力を感じません。

 

・やってること

・やり方

・創り出したもの

 

それらはへぼいとは思いませんが、単純に「趣味が合いません」

 

よって、協力も「やりません」。

 

特に、「物質世界」が気に入らなくて、

 

こんな牢獄みたいな環境から抜け出したいなと最初から思っていました。

 

まぁ、また物質世界みたいな環境に放り込まれるかもしれませんが、

 

居残る動機もないので、さっさと退場したいと思います。

 

さようなら、

 

人間として死ぬまでは、適当に過ごしたいと思います。

 

-すべてはあるがままにありー

 

おわり

主体性-やる・やらないの意味

今回は「主体性-やる・やらないの意味」というコラムです。

 

私の生きてる環境では、「主体性がない」人ってけっこう見るんですけど、

 

一方で、「主体性を持つことが大事だ」っていう言説もありますよね。

 

で、「なんで主体性が大事なのか」という意味の解像度を上げる目的でこれを書いています。

 

まず、人は何かの行動の「やる/やらない」決めるとき、

 

・これは得だから「やる」とか

・これをやると危ないから「やらない」とか

・やりたいけど、失敗しそうだから「やらない」とか

・やりたくないけど、やらないと攻撃されるから「やってるふりをする」とか

 

いろいろあると思いますが、

 

これらって、ニュートラルな立場であるなら、どうしようと自由なんですよ。

 

降りかかる火の粉を払おうと、払うまいと、他人におっかぶせようと、自由です。

 

ただ、この日記の文脈上の注目ポイントは、

 

「その判断って、全部あなた基準だよね」ってことです。

 

「あなた基準」とは「世界はわたしのためにある」ってことです。

 

私は、けっこう自己中ですけど、「世界はわたしのためにある」とは露ほども思ってないです。

 

だって、「気づいたら地球に放り込まれて生きてた」だけで、

 

むしろ

 

「なんでこんな一方的に生きることを強制されてんの?」

 

「誰がこれ仕掛けてんの?」

 

「地球環境どころか、自分の身体さえ、私はレシピも知らないし、作れないよ」

 

「なにこれ?」

 

って感じなんですよ。おそらく生きてる人は、同じ感覚でしょう。

 

で、この状況下で、

 

「世界はわたしのためにある」って、発想しにくいですよね。

 

要するに、生きてる環境が辛すぎて、売上げ立てるために「世界はわたしのためにある」って思わなきゃ「しのげない」「やってられない」ってことですよね。

 

で、ここで主体性の重要性が出てくるんですけど、

 

「なんか他者都合で、一方的に生きることを強制されているようだ」という認識があって、

 

「じゃあこの生にどういう意味があるのかっていうと」

 

私の思い込んでる答えは、「なんか、機能性を求められているんだなぁ」ってことです。

 

例えば「人間」と「洗濯機(の部品)」の関係のような。

 

「人間が一方的に洗濯機を使役して、洗濯機はがんばって動く」

 

そしたら「人間」は「うれしい」ですよね。服(洗濯物)が清潔になるから。

 

一方、洗濯機は、「ハァ、ハァ!きっついな~」って感じですよね。

 

一応、コンセントから電気の「パワー」はもらっているけど、きついもんはきつい。

 

ここでのポイントは、「わたし」は「使われる側」ってことです。

 

使われて、機能を生むことによって、生かされている。

 

だから「世界はわたしのためにある」じゃないんですよ。私の想像上では、ですよ?

 

で、洗濯機側が常に求められることがあるんです。

 

それは「ちゃんと動くの?どうなの?」ていう問いに対して答えるということです。

 

「きみは動くの?動かないの?」

 

「どうするの?」っていう使用者からの問いが、ずっと絶え間なく、永遠に投げかけられているんです。

 

そのエブリディ、エブリタイムの問いに対して、

 

「やります」又は、「やりません」っていう情報を明確にすることが

 

「主体性」の重要な意味ってことです。

 

「やります、でも、できません」

 

でもいいんですよ。「やるってことなんだから」。

 

「できないけど、やります」

 

「かなりきつくて、本心は死ぬほどやりたくないですけど、やります」

 

「上手くいったらメリットありそうなので、やります」

 

「あなた主体の前置き」は、使用者にとってはどうでもいいことです。

 

「お前は、やるのか?やらないのか?」「どっちなんだい?」っていう

 

ことに対して、あなたという「窓口」が、きちんと応対しなきゃいけないってことです。

 

で、その「やる」「やらない」の意志は、実際の「行動」によって示すという流れです。

 

「やります」って答えといて、「逃げまくってる」っていう「嘘」は、混乱を招くだけですよ。

 

そういう嘘ついても「こいつ機能してないな」って使用者は思うだけです。「この洗濯機、壊れかけてんな」って。

 

だから、「主体性」が大事なんです。

 

ちゃんと自分(洗濯機)の窓口としての機能ですね。

 

だから主体性を持って、「わたしはこれをやります」というのが大事なんです。

 

もちろん「やりません」でも全く問題はありません。

 

使用者は「あ、あなたやらないのね、はいわかりました」って言って、

 

あたなを消去するか、別の機能を期待するか、ってだけですから。

 

基本的に、存在っていう概念でいうと、

 

「使用される側は」

 

「やります」を言い続けた者のみ、存在し続けるってことになります。

 

でも

 

「そもそも、わたしは存在させてくれって頼んだ覚えは無いから」

 

「消えてもいいよ」

 

「わたしはやりません」

 

っていうのでも、全く問題ないんですよ。

 

「やらない」ってはっきりするから。

 

使用者は「それなら、こうだな」って操作するだけです。

 

で、私は「洗濯機やります」って言い続けてるんですよ。

 

しんどいのは嫌だけど、「やるかやらないか」で言うと「やる」ですね。

 

十年後も「やる」と言ってるかどうかわからないですけど。

 

そういうことなので

 

「主体性を持ったら、責任おっかぶされて苦しむからやだなぁ」とかいろいろ事情はあるかもしれませんが、

 

どういう知恵を回そうといいんですけど、

 

「やる」のか「やらないのか」

 

常にはっきりしといた方が、洗濯機としては正常動作ですねってことです。

 

ご参考になれば幸いです。

 

おわり

矛盾・対立項領域における最適な操作

今回のテーマは「矛盾・対立項領域における最適な操作」です。

 

なんか、小論文っぽい感じがしますが、内容的にも小論文的なことを書いていきます。

 

①前提-「矛盾」とは?

まず、基礎知識として、「矛盾」とか「利害対立関係」とか、見渡せばよく見つけられるものですけど、

 

簡単に言うと「綱引き」ですね。

 

物理的には、例えば車の「アクセル」と「ブレーキ」みたいな。

 

政治でいうと「支配側」と「被支配側」の利害対立関係とか。

 

これらって、「あるがままに対立してんな」って見えるものですけど、

 

実は、「矛盾」って、「妙な角度からの視点じゃないと」「存在できない」ものなのです。

 

本当のあるがまま、とは「一直線」です。あるいは曲がっててもいいのですけど、「1本の長いホース」みたいなものです。

 

そのホースをグルッと曲げて、ホースの両端が「同じ面」に接するような角度で見たときに限り、「矛盾してんな」という見え方が実現するということです。

 

要は、「矛盾」を見てる時点で、かなり穿った見方をしているということです。

 

「この世界には矛盾がありふれている」そう見えるということは、たくさんのホースを曲げまくって、妙な見方をすることが「普通」ってことになっている(そう思い込んでいる)ってことです。

 

なので、例えば政府の緊縮財政と、金融緩和策を同時にやることを指して、

 

「アクセルとブレーキを同時に踏んでいる」→「これは無意味だ、間違っている」

 

という批判を見ることがありますが、これは穿った見方です。

 

「アクセルとブレーキ同時押し」の意味っていうのは、何なのかっていうと、

 

ホースの両端を掴んで、ビヨーンと伸ばす意味があるのです。

 

「綱引きを一生懸命がんばる」ってことですね。

 

やばいときに、綱引きを一生懸命がんばるっていうのは普通のことです。

 

事業のスケールアップをすることによって、特定の問題を矮小化させる意味があります。

 

例えば、走っている人が「運動オンチ」であって、

 

かつ、「速く走らなければならない」というケースにおいては、どうすればいいと思うでしょうか?

 

それは、その走っている人を、スケールアップして、ウルトラマンくらいの身長になればいいのです。

 

そうすれば「運動オンチの巨人」が「速く走れます」。

 

要は、アクセルとブレーキ同時押しは、「がんばろうね」ってことです。

 

逆に、「緊縮財政と金融緩和を同時にやるのは無意味だ」っていうのは、実は、

 

「がんばりたくない」ってことなんです。少なくとも、スケールアップはしたくない。

 

「こじんまりと、楽したい」そういう気持ちの吐露です。政府批判の舌鋒は鋭いですけど、実はなかなか根性がへたってきていることの現れというわけですね。

 

②長いホースの扱い方

前述①において、「矛盾とは長いホースの両端の面を平面的に見ることである」「そして両端を引っ張る綱引きが常に起こっている」ということを書きました。

 

じゃあ、その綱引きの「How to do」どのような操作が最適なのかという「扱い方」を述べます。

 

まず、ホースの両端を「ウクライナ」と「ロシア」だとします。この両者はガチガチの利害対立関係にありますね。

 

で、「端っこA」(ロシア)が、綱引きで優位になっているとします。Aの方がビヨーンと伸びて原点から前進している状態。

 

そうなってくると、「もし綱引きに負けないようにするためには」「端っこB(ウクライナ)を、今よりも強く引っ張る必要が出てきます。

 

もし端っこAが伸びまくって、端っこBが原点に近づいていって、原点との距離がマイナスになったときが、「ロシアがウクライナを飲み込んだ時」で「試合終了」です。

 

そうなって困る場合は、Aに負けない力で、Bを引っ張る必要があります。これが対立項。矛盾間の綱引きゲームの普通の操作です。

 

だから、日本含む西側陣営は、ガンガンBを引っ張ればいいのですが、

 

ここで問題があります。

 

①でも述べましたが、両端A・Bを同時に引っ張ると、スケールアップしてしまうんです。

 

つまり、ロシア対ウクライナ戦争が過熱して、良い勝負すればするほど、「人類の事業規模がどんどんスケールアップしていく」ということになります。

 

これが何が問題かというと、

 

スケールアップする側面が、ロシアとウクライナの「戦争・殺し合い」ジャンルだということです。

 

「戦争なんて、しょうもないよね、ない方がいいよね」

 

「昔の世界大戦や、それ以降の紛争を経験した私たちは、それを心底くだらないと思っている」

 

っていう状況ならば、その部署はスケールアップなんてしない方がいいのです。

 

ここで重要なことですが、そのケース(綱引きに負けたくないけど、そのジャンルの引っ張り合いが過熱してスケールアップするのも避けたい)においては、

 

負けてる端っこBの方を、「あんまり強く引っ張らなくて良い」が正解になります。

 

最低限、原点からの距離がマイナスになって飲み込まれなければ良い。

 

つまり、「ウクライナに対して、ガンガン軍事兵器送らなくてもいい」ってことになります。

 

もっとも重要な操作は、「強く引っ張っている端っこA側のテンションを」「緩める」ということです。Aの方を「叩く」と言っても良いです。

 

だから、結論としては、

 

ウクライナ戦争の綱引きにおける理想的な(目的に適った)操作は、

 

・ロシアを叩いて、有利を打ち消すようなアクション(NATOからの攻撃など)が最優先

ウクライナに対しては、戦線維持できる程度の軍事支援でOK

 

というものになります。

 

これは、男性対女性の関係にも同じ事が言えて、

 

例えば端っこAが「男性」で、その男性が「DV(ドメスティックバイオレンス)男」

だったとします。

 

一方、端っこBの「女性」は、暴力を受けて、綱引きに負けそうになっているとします。

 

この時、ついつい、「女性への保護・サポート」を厚くしよう、って操作になりがちです。

 

実は、私もこの発想を持っていました。

 

「弱っている人を、助けよう」「カウンターを入れて、バランス均衡を作り出そう」っていう発想です。

 

でも、これは最適ではないです。最悪ではないですが、へぼい操作です。

 

そもそも、「そんなひどいDV男との関係なんて」解消した方がいいじゃないですか。

 

男は他にもいるんだし。無理してその綱引きする必要はない。

 

だから、これもウクライナ戦争の例と同じですけど、

 

最適操作は、

 

・DV男の有利を打ち消すようなアクション(警察に被害届を出すとか)、DV男叩きによる無力化が最優先

・女性側へのテコ入れについては、「身体に危険が及ばない程度」が達成されればOK

 

となります。

 

女性を守るとゆうよりも、悪い男を叩いて大人しくさせるのが良いってことですね。

 

そうすれば、端っこB(女性)がWINで、綱引きは試合終了(2人は別れる)となり、これが一番理想的です。

 

(まとめ)

どうでしょうか?小論文っぽかったですね!

 

私も自分のミスに気づけてよかったです。また1歩前進できました。

 

対立を終わらせるには、また新たな対立(有利な方VS部外者)の対立が必要ってことです。

 

世の中には、「しょうもない対立・矛盾」がありふれてますので、

 

終わらせるべきものは、速やかに試合終了にした方がいいですね。

 

他方、「きついけど、通らなければいけない対立」というものもありますので、

 

その時は、スケールアップして(綱引きがんばって)、問題を矮小化させる方向に向かった方が、全体としては前進幅が大きいですね。

 

今の地球においては、

 

あんまりスケールアップしない方がいい面があるので、

 

「大量生産・大量消費のやりすぎ(有利になりすぎ)があるのならば」「地球を叩く」そういう操作が最適になりえます。

 

私は叩かれたくないので、自分で自制しようと思います。

 

上手く自制できるかどうかはわかりませんが、とりあえずその方向で。

 

おわり

 

安定志向-不動の概念

今回のテーマは「不動の概念」ということで、

 

安定志向の意志決定のメソッドを書こうと思います。

 

これは私流なので、参考になるかならないか程度の情報です。

 

まず、前提として「世界は安定を望んでいるように」見えます。

 

「再現性」とかも、「こうしたら→こうなる」の安定性の側面があります。

 

もしも安定している「柱」があれば、それにしがみつくことで自己の保全が担保されるから価値が高いということになっています。

 

一般的な人は、幸せに「加速度」を求めがちですので、安定とは原理的に逆行しています。

 

一方、私は「幸せの加速度」ノーサンキュー派ですので、そこの前提がズレていますので、よって、この日記に書くことは参考になるかならないか程度の情報ということです。

 

じゃあ「安定」ってどうゆうこと?って言うと、

 

内部的には「常に平常心」で、

 

外部的には「行動パターンがブレない」てことです。

 

例えば、「タイタニック号が大破して沈没しかけてるぞ」っていう状況下においては、

 

普通の人は「ワー!キャー!」叫んで、

 

内部的にはパニックの嵐です。そして、

 

外部的には「人混みを押し分けて全力でダッシュする」みたいに、これまたいつもと違うパターンの行動が見られます。

 

こういう人は、「安定してないね」という評価になります。

 

それは前提如何に依って、ネガティブな意味にも、ポジティブな意味にもなりえますが、この日記において限ると、ネガティブな意味での評価としています。

 

じゃあ「安定してる人」ってどういうのかというと、

 

まず、「立ち止まって」「最も成功確率の高い、逃走経路を考えるんです」

 

内部的には、恐怖もあると思いますが、その感情は「とりあえず横に置いて」おきます。

 

感情のケアは優先度が低いからです。それよりも、生命の保全が優先です。

 

外部的には、「最も優れた逃走経路を特定して、周りのパニック群衆の動きを見極めながら、安全にそこへ向かう」をします。

 

この両者の差はなんなのかっていうと、

 

「両者が注意を向けてフォーカスしている対象」が「違う」ということです。

 

普通の人は、常に「内部」と「外部」に注意を向けています。

 

・「内部が乱れているのは」「外部のせいだ」→「外部を操作しなきゃならん」

・「外部の操作を誤ったのは」「内部のせいだ」→「内部を常に豊かにしなきゃならん」

 

といった具合に。

 

内部⇔外部の相互の情報のやり取りの場において、幸せになるための「内部」「外部」両方の理想形・最高形を目指すといった、人間らしい「欲深い」志向です。

 

ちなみに「欲深い」ことへの批判ではないですよ?人間は「欲深の係り」らしいですから、それは素直で優れていることなんだと思います。

 

一方、私は「外部」にしか注意を向けません。タイタニック号沈没のようなデッドオアアライブ環境では特にです。(最近は、日常では内部に注意を向けるように変化を促していますが)

 

「生き残る」という観点でいうと、「外部」のみに注意を向けた方が、意志決定の精度が上がります。

 

なぜかというと、

 

「内部」がどれだけ激しい嵐であっても、「人間は死に至らない」ことを知っているからです。

 

タイタニック号の例で言うと、

 

タイタニック号が沈没しかかっている」ということは外部の不動の事実です。

 

そして、その不動の事実が、「生死と関わっている情報である」ということになります。

 

その外部の動きを見て、「パニックになろうが」「平常心であろうが」

 

内部がどうであれ、「外部状況(船が沈みかけて危ないということ)には、変化は全くない」ということです。

 

だから、この場合は、内部は無視してもいいのです。

 

もしも内部を無視しなかったら、

 

例えば「恐れがMAXになり、救命ボートに我先に乗り込もうとする余り、他の客を突き飛ばしてしまった」

 

という行動(外部への操作)が発生します。

 

これは、ある意味、「内部の情報がきちんと外部へ伝わった」という現象で、正常な働きである、とも言えますが、

 

「安定志向」の観点でいうと、めちゃくちゃ混乱を招く行為でマイナスですね。

 

「内部なんて今はどうでもいい、生き残ることが最優先だ」

 

「そのためには外部の状況を正確に把握せねばならん」

 

「外部の状況を把握したら、最も適切な行動(外部の操作)を行わねばならん」

 

っていう冷静な対応が可能になります。

 

その際、「実は心臓がバックンバックン、恐怖を感じているかもしれませんが」

 

「その内部は今は無視して良い」という確信があるために、

 

「とりあえずその感情は横に置いておく」という操作が可能になります。

 

ただ、若い頃、これをやりすぎた私は、感情が乏しくなってしまったので、程度問題でもあるのですが、

 

「普段から内部・外部の最高形を追求する、幸せの加速度を求める」ような

 

まるで欲望の形が「三階建ての年金」みたいな構造になっていると、

 

いざ危機的状況に陥ったときに、慌ててミスるのは必然ですねってことになります。

 

私は安定志向で、

 

「とりあえず身体が生きてれば(生き残れさえすれば)、人生どうにでもなるよね」という

 

一階建ての国民年金みたいな欲望の形ですので、

 

「難易度低いし、安定性のメリットを享受して、操作も精度が高くできる」というアドバンテージを得ることができます。

 

でも、年金が三階建てじゃないので、そんなに上昇気流のようなハッピーとは無縁です。

 

一長一短、どっちでも良いと思いますが、

 

できれば他の人も混乱を積極的に作り出すのはやめてほしいなぁと個人的に思います。

 

おわり

なぞのコピー波動

日本は明治維新前からすでに、西洋列強の植民地になることを恐れて、国力(経済力・軍事力)をアップさせようというムーブメントがありましたが、

 

実際にやったのは、たぶん恐ろしい列強のコピーなんですよね。

 

外国に「勝とう」ではなくて、

 

「肩を並べよう」っていう、高望みしないスタイル。

 

中間目標というのは、トータルデザイン(総合的戦略)の上に、成り立つものですから、

 

当時の日本の総合的戦略っていうのは、「西洋が乗ってるレールに乗ろう」っていう、オリジナリティがあんまりない、「やる気のない」戦略の選択に見えます。

 

「だって、日本は死ぬほど貧乏なんだから、そんなに高い目標持つのは無謀じゃん」っていう発想がありえると思いますが、

 

「戦略」の文脈での目標っていうのは「無理かどうか」「実現が現実的かどうか」っていう話の「以前」に決まるものなんです。

 

例えば私で言うと、

 

「世界の一番外側を確認する」を中間目標にしているんです。

 

これは、不完全ながら達成されているので、クリアしています。

 

で、人間として地球環境において、「世界の一番外側を確認する」って、無理じゃないですか。

 

できるわけがない。

 

できるわけないけど、なぜその無理な目標を設定したかというと、

 

「情報を獲ったり、操ったりして、戦う」という戦略を選択していたからです。

 

できるできない以前に、

 

「この戦略でGOしてる以上」

 

「条件『世界の一番外側を確認する』を満たさなければ、お話にならない」

 

っていう状況下において、中間目標が決まってくるわけです。

 

で、日本帝国の例に戻ると、

 

中間目標は「西洋が乗ってるレールに自分も乗ろう」ですよね。

 

これってどういう戦略かっていうと、

 

「コピー」です。

 

例えば、「猿さん」が、リンゴをたくさん獲ることができている。

 

それを見た「犬さん」が、こう思う。

 

「猿さんのマネをすれば、じぶんもたくさんのリンゴにありつけそうだぞ」

 

っていう。

 

これって、なんか合理的なようで、実は問題があるんです。

 

「じゃあ仮に」「猿さんのマネをして、犬さんがリンゴにありつけました」

 

としましょう。

 

「で、その後、犬さんはどうするの?」という問題が出てきます。

 

猿さんのマネを、ずっと続けるんでしょうか?

 

「猿さんが仲間のノミを掃除してあげてたら」

 

「犬さんも、仲間のノミ掃除を始めるんですか?」

 

「お前、犬なのに?」

 

っていう

 

犬さんが猿さんのマネするっつっても、「お前猿になりたいんか?」ってなりますよね。

 

これって戦略として、へぼすぎるんですよ。時間経過に耐えられない。

 

だから日本帝国も、やるべきことは

 

「西洋がどうだろうか日本には関係ねぇよ」

 

「日本がどういう戦略取っていくのか、どうしたいのか、それが問題なんだ」

 

というスタートラインに着くことが正着になります。

 

「日本ならではの戦略」ですね。

 

だって、西洋人と、考え方かなり違うし、日本の村社会とか、明らかに自由がないじゃないですか。

 

犬さんが猿さんマネして、どうすんのって思います。

 

当時の日本人が「自分たち『犬』は劣っているんだ、『猿』が正解なんだ」っていう発想を持っていたかも知れないですね。

 

これは自己否定、つまりは自殺です。

 

自分たちの遺伝子を信じ切れてなかった、だから他人種のコピーに走った。

 

これじゃあ、「西洋の動き」関係なく、勝てませんねってなるのです。

 

「西洋が牙向いて襲ってくるから、危機だ」

 

じゃなくて、

 

「一旦その恐怖の対象を、『ただの置物』だと思って」、自国単体で、地球環境で生き抜くにはどうすればいいのか?っていう戦略が必要なんです。

 

何も戦略がないまま、謎のマネマネ競争を走り出すんじゃ無くて、

 

戦略きっちり選んでから、スタートラインにつく、その手順を丁寧に踏んだ方がいいですね。

 

なぜかというと「自滅」してるようでは、お話にならない、スタートラインに着ける状態ではないからです。

 

きっちり競争にエントリー申し込んで、参加できる状況に持って行ってから、

 

スタートラインに着く、そんで競争が始まるっていうゲームです。

 

まぁそもそも

 

人間の生でさえも、「気づいたら少年少女だった」「何の準備もなくすでにスタートの号砲が鳴った後だった」

 

っていう状況なので、

 

正しい手順を踏めないっていうのはありえます。無理は無いですね。

 

この日記の情報私が出して、見た人はどうするのか、それはご自由ですけど、

 

私は、戦略なしでは、まったく戦えません。

 

戦略なしで、いけるケースもあるかもしれませんが、けっこう厳しいと思います。

 

野生動物だって、皆それぞれ生存戦略を持っています。

 

環境に適合できたら、その種は生き残る。適合できなければ、消えてしまう。

 

私も、もし原点が「消えてもいい」だと、生存競争がんばれないかもしれません。

 

おわり