例えば・・・
スマホを見ながら歩いて、電柱におでこをゴツンとぶつけたとき。
「いてっ!」ってなって、
「あぁ、ドジしたなぁ(自分のミスだなぁ)」と思うでしょう。
他方、クラスの同級生に、頭を殴られたとき。
「いてっ!」ってなって
「おい、暴力とかふざけんなよ!(お前が悪い)」と思うでしょう。
このふたつの「いてっ!」は、当人目線(一人称視点)では全然違うシチュエーションに見えますが、
客観的に見ると、同じだと見ることもできます。(見ないこともできますが)
例えば、いずれも「合理性の欠いた行動をして、損をした」現象で、等価であると言えます。
合理性の欠いた行動とは、
「スマホして、前方をよく見ないで歩いたこと」
「クラスメイトからの攻撃を誘発したこと」
なぜモノである電柱に対しては怒らないのに、人に対しては怒るのか?
その答えは、「モノには期待していなくて、人に対しては期待している」からです。
「人ならば、一緒に楽しい時間を創ってくれるだろう」
「人ならば、平和を維持してくれるだろう」
という期待。それは美しい信頼でもあり、タカリの依存でもあります。
世の中には、プーチンとか、心から他人と握手することが決して無い人間もいますし、
元々は他人と握手したかったんだけど、精神状態が悪すぎて苦しすぎて、破壊行動をとらざるを得ない人もいます。
なので、そういう人たちも含めて、「期待」をかけるのは、
信頼関係の構築でもあるし、死に体への依存でもあります。
合理的な観点でいえば、
「どのような他人が存在するのか」についてはコントロールできないので、
「期待」する相手を選んだ方が良いと思います。
あるいは、一般的に「期待」は裏切られることが十分にあることをよく踏まえて、期待するとか。
そのためには「相手を知る」ことが重要になります。
「クラスメイトは、なぜ暴力を使ったんだろう?」
「私が不用意なことを言って傷つけたから?それとも、そもそも家庭の事情で不安が強かったから?」
その辺は、推測では確定しないので、本人に聞けば、わかるかもしれません。
結論としては「もっと、普段からこの人の話を聞いてあげて、意志の疎通をした方が良かったな」というのが大体になると思います。
ただ、日本社会においては、「空気を読む」文化があるので、
「お互いに、高い期待をしあう」場があると見る人が少なからずいるようです。
「相手のことをよく知らずに」
「場の空気を安定させてくれるだろうの期待をかけ合う」
「全員がその期待に応えられるようにがんばる」
→それができない人間は、「期待はずれ」で、失格になる
みたいな圧力。
この手法は「人間管理」「支配手法」としては有効かもしれませんが、
まったく合理的ではありません。
先ほども言ったように、よく知らない相手に、一方的に期待をかけても、高確率で空振ります。
集団からの落伍者を創り出すための、支配のやり方です。
合理性があるとすれば、支配者側が、容易に集団を操作できるという点であって、
プレイヤー目線、一人称目線では、それに従うことは明らかなミスになります。
「支配者が」「ちゃんとしてれば」問題がないかもしれませんが、その確率は、宇宙の中の米粒くらいの確率しかないです。いや、もうちょっと高いかな?
だからこそ、こどもの気持ちを代弁していた川崎レナさんは
「政治家のみなさん、かっこいい存在になってください」と言ったんですね。
そうでないと、「お互いに高い期待をしあう戦略」が「破綻する」という理解があったのでしょう。
そういう運任せの針の穴を通すような方針ではなく、
「自分が合理的に動こう」とした方が、はるかに割に合います。
「よくわからない相手に対して、『私のために~してくれるだろう』の期待をするのはやめる」とかの行動ですね。
合理性も、突き詰めると、通す穴が細くなっていくんですが、
ある程度の水準を超えれば、じゅうぶん割に合います。
私としては、あんまり不合理な行動をして、損してほしくないなぁと思っています。
という参考程度のアドバイスでした。
おわり