異次元の統一教会

直近のツイッターで、永続性について書きましたが、

 

権力者というのは一般的に、「個人が永続性を求めてる」ってことなのかもしれない。

 

それって無理なので、私の頭になかったんですが、例えば死後の世界も見ているとすると、「永遠に栄えた状態で存在したい」という欲求を持つこともあり得るなぁと思います。

 

権力に近いところは、とりあえず「永続性」「できれば繁栄」をMUST条件に設定して、周辺の一般市民はそのための駒、又は死んでも構わない(むしろ敵が減って良し)という認識。

 

何を犠牲にしてでも、達成するんだ、という強い決意が見えますね。そういう生への執着は、プラスポイントでしょう。

 

権力者にとって変化とは、「めんどくさい」「権力を削がれる契機」くらいにしか思っていないのかもしれませんね。なぜなら自分が報われるように変化するやり方よりも、駒たちが努力したり犠牲になったりして滅私奉仕している形を作らないと、永続的に栄えることは一見不可能に見えるからでしょうね。

 

「やり方へのこだわり」ですね。このこだわりは、時間が経てば氷解する類のやつです。

 

上記の理由から、権力中枢は変化しない、親衛隊である官僚組織も変化しない、一部の民間組織もマネして変化しない、一部の民間組織はバタバタ走り回る、という時間の流れ方が中心にいくほど、ゾウさんの時間になる、スローな世界という見え方になります。

 

これって現象としては面白いですね。望遠鏡で宇宙の銀河を見るような、ある種の物理的美しさを感じます。

 

で、統一教会は、権力に喰い込んで、関わった政治家は「何が悪いのかわからない」と。

 

「個人が永続性と繁栄を求め、他を利用したり犠牲にしたりするのが権力の在り方だ」

 

「それは、統一教会のトップも同じことをしている、同じ手法を用いている点で、政治家としてシンパシーを感じている」

 

という感じの文言が後に続くんでしょう。

 

私は以前、「統一教会は急いで潰さなくてそのままでいい、自然消滅でいい」と言いましたが、その考えは今も変わっていません。

 

統一教会がいる領域は、権力中枢、異次元のスロー世界だと思うので。

 

権力銀河の動きについて、じっくり観察してみようと思います。時間の流れ方が違うというのは、けっこう面白いです。

 

未来のことが知りたかったら、私のような外側で動いてるやつを観察すれば、わかるという未来予知が可能な状態・・・どんな景色なんだろう。

 

未来がわかったと言っても、実際にそこを目指して歩を踏み出せるか、それが注目のテーマだと思います。

 

 

カントの純粋理性批判

哲学者カント(1724~1804)の純粋理性批判の解説動画をYoutubeで見ました。用語の解説とかが、けっこうわかりやすかったです。

 

前に、マルクス・ガブリエルさんの著作「なぜ世界は存在しないのか」を読んで、「カントは、『世界(allの意味での世界)』は存在するという立場」みたいな紹介がされてあって、私は「カントとは気が合うな」と思ってたんですが、

 

純粋理性批判の内容をざっくり見てみて、「やっぱり考えが近いなぁ」と親近感が湧きました。動画では、コペルニクス的転回や、感性、悟性などの用語解説を学びました。

 

カントを批判してる哲学者もいるようで、「一体どういう切り口で批判してるんだろう?」と興味を持ちましたが、ググってもあまり見つからなかったので、こちらはあきらめました。

 

この純粋理性批判がリリースされたのが1781年で、当時は哲学界がけっこうザワザワしたそうですが、今が2022年でしょう?2022-1781=241年経過してるんですよ。

 

現代で、カント哲学を応用できてる人って、どれくらいいるんでしょうね。カントの出した情報を踏まえたら、大体の交通整理はできると思うんですが、トップランナーマルクス・ガブリエルさんが「世界は存在しない」でしょう?

 

その辺りでつまずいてる人が多いから、話題にもなったと捉えるのが自然で。世の中の学者はどれだけ哲学軽視してるんだろうかと驚きました。

 

カントの功績は、人間が考える様のことを観察して、「こういう模型ですよ」と提示したことにあると思います。それやる人間自体、数がいなかったでしょうからね。

 

提示された模型は、粗を探してブラッシュアップしてもいいし、適用範囲を見極めた上で使用したり、とにかく便利です。

 

カント模型を使いこなせない、というのは、腕が無いか、若しくは現実とかけ離れた夢を見ているかのどちらかでしょうね。

 

カントが遺した貴重な情報を「あんまり好きじゃないから」「自分の欲とバッティングするから」とかの理由で簡単にポイ捨てするのはもったいないと思います。

 

調和との付き合い方

日本は和の心が大事だとよく言われますが、和の心とは、個々人の自然なありのままの心を音楽のハーモニーのように重ねる、ということだと思います。

 

私はあんまりよくわからないですが、これってリスクは低そうですね。

 

心も自然物のひとつで、周りの自然と調和する、というというのは世界にとって「邪魔者にならない」安全な態度と言えると思います。

 

しかしながら、その世界というのも有限な(比較的範囲の狭い)領域しか持っていないため、それと心中するのはちょっと怖いですね。

 

「いや、心中するんだ」という考えを、半ば無意識に?多くの日本人が持っているというのは、なかなかリアリティがないですが、実際の所はそれが現実なんでしょう。

 

私の場合は、心の調和による恩恵を良く知らないので、それを肯定も否定もできない立場なんですが、それを得るために命を賭せるかというと、それだけじゃやだなぁと思います。

 

だって・・・それを提供する側からすれば、コインランドリーに心を多数ぶちこんで、洗剤みたいな媒体を流し込んで、スイッチオン!すれば、「おぉ、調和できてる~♪」という感じでしょう。

 

強い不安や、焦りや、悔しさを感じている人は、そこからは蚊帳の外でしょう。

 

一部の人だけが、既存の技術で、調和を味わっている、「そうか、そういうもんか」と受け入れるのがいいのでしょうね。

 

自我を持って努力したり、競争したりするのは、調和に反するから排除、

 

それによって生産能力が落ちて、経済が落ち込む、システムダウン、も「そうか、そういうもんか」とするのがいいのかもしれません。

 

調和の領域も狭くなる、社会全体よりも小さくなる、ノイズが増える、調和現象が壊れる、

 

そういったシナリオを踏んだとしても「いや、これと心中するんだ」という態度であるならば、それはそれで一貫性があって良いと思います。

調和との付き合い方

日本は和の心が大事だとよく言われますが、和の心とは、個々人の自然なありのままの心を音楽のハーモニーのように重ねる、ということだと思います。

 

私はあんまりよくわからないですが、これってリスクは低そうですね。

 

心も自然物のひとつで、周りの自然と調和する、というというのは世界にとって「邪魔者にならない」安全な態度と言えると思います。

 

しかしながら、その世界というのも有限な(比較的範囲の狭い)領域しか持っていないため、それと心中するのはちょっと怖いですね。

 

「いや、心中するんだ」という考えを、半ば無意識に?多くの日本人が持っているというのは、なかなかリアリティがないですが、実際の所はそれが現実なんでしょう。

 

私の場合は、心の調和による恩恵を良く知らないので、それを肯定も否定もできない立場なんですが、それを得るために命を賭せるかというと、それだけじゃやだなぁと思います。

 

だって・・・それを提供する側からすれば、コインランドリーに心を多数ぶちこんで、洗剤みたいな媒体を流し込んで、スイッチオン!すれば、「おぉ、調和できてる~♪」という感じでしょう。

 

強い不安や、焦りや、悔しさを感じている人は、そこからは蚊帳の外でしょう。

 

一部の人だけが、既存の技術で、調和を味わっている、「そうか、そういうもんか」と受け入れるのがいいのでしょうね。

 

自我を持って努力したり、競争したりするのは、調和に反するから排除、

 

それによって生産能力が落ちて、経済が落ち込む、システムダウン、も「そうか、そういうもんか」とするのがいいのかもしれません。

 

調和の領域も狭くなる、社会全体よりも小さくなる、ノイズが増える、調和現象が壊れる、

 

そういったシナリオを踏んだとしても「いや、これと心中するんだ」という態度であるならば、それはそれで一貫性があって良いと思います。

過去の実績

地球では、ウクライナとか、シリアとか、北朝鮮とか、「この世の地獄か?」と思えるような惨状地帯が存在しています。

 

日本にもアメリカにも、一部そういう地域は昔からあり、無念の死を迎えている人は少なくないと思います。

 

こういうのを見ると、「神は本当にいるのか?」と思うのですが、「神がいる」ことと「地獄のような世界がある」ことが両立するパターンがあります。

 

それは、「神がその地獄を安全圏内であると確認済み」である場合です。人間から見える「地獄」は、まだまだぬるいってことですね。

 

そういう事情があるので、人間は多少苦しくても退いていられない、となるわけですが、

 

苦しみの中で生きるには、ある程度準備が必要なのも確かな事です。

 

なにも訓練していない赤子が、地獄に落ちても、ただ苦しむだけです。愛情を与えて、ご飯を与えて、技術を与えて、やっと5分5分の勝負という所でしょうか。

 

虐待死する子供がいるということは、「ただ苦しむだけでもええやん」という発想があることの証左ですが、私はただ苦しむだけはやだなぁと思います。

 

しかし、過去、例えば神は、ただ苦しむだけの世界を経ていると思うので、それでさえも、まだまだぬるい、というのが現実なんでしょう。

 

そのプロセスを辿り学習することは私のひとつの目標ですが、私は準備がある程度整っているので、やろうか、となっているだけで、

 

もし準備不足なら、地上の苦しみだけでももう勘弁、となっているかもしれません。

 

まぁ人間目線でも、昔は普通に生きるだけでも「現代における地獄」のような環境はあったと思うので、その歴史をリピート再生するくらいの準備はしておいた方がいいでしょう。過去の人間ができたんだから、今の人間にもできるはずなので。

 

昔の人は「苦労を避けたい、減らしたい」という気持ちはあったと思いますが、それだけではなく「退かない」という反骨心もあったと思います。

 

現実から逃避するために人が作った「幸せなイメージ」が、現実にあって当たり前であると思い込んだために、そのギャップに殺されるという自爆は悲しいですね。

ミャンマー軍事政権

ミャンマー軍事政権が、収監していた民主活動家4名の死刑執行をした(罪状は武器調達によるテロ行為への関与)というニュースを見ました。

 

これを見て、第一印象は、軍事政権はずいぶん余裕がないんだな、と思いました。実際に民主派がテロ行為実行したのならば、まぁ死刑もやむなしと思いますが。

 

軍は、実用的な武力を有しているので、「いざとなったら武力行使」というカードを持っています。そのカードを惜しげもなく切っているところを見ると、あんまり優れた戦略家ではないんだな、と思います。争いとは相手にいかにして切り札を切らせて「ダルマ」にするか、というゲームですから。

 

「余裕が無くて、考える力もない軍」が政権を取っていると、普通の人は嫌だなぁと思うでしょうね。

 

軍の主張とかがよくわからなかったので、ググってみました。

 

そういうしたら、軍のルーツはビルマ族の独立軍で、「自分達こそがミャンマー国の本流だ」という認識がある。その念頭には常に「他部族との主導権争い」がある。経済不況により、国民はスー・チーさんを神輿に担ぎ民主化へ大きく振れたが、それが軍にとって脅威となり、選挙における不正を口実にクーデター発生、現在に至る。

 

みたいなストーリーでした。で、ビルマ独立軍の創設に深く関わったのが旧日本軍であり、近代においても社会インフラ建設の援助など日本政府は積極的に行っているとのこと。

 

なるほど、ということは、最初に私が言った「軍は余裕がない」というのはちょっと違うということですね。余裕はないんでしょうけど、それは本質ではなくて。

 

・「我々こそがNo.1民族」というビルマ族のプライド

・他民族と戦ってるのが楽しい

 

こんなところが本質でしょうね。なかなか、つまらないことにこだわって生きてますね。(人のこと言えませんが)

 

民族差に依存して歴史を長い間紡いできた人に、いきなり「みんな平等!」というのは酷かもしれません。民族対立があれば、都合の悪い事は全部他民族に押し付けられますからね。ストレスフリーなやり方でしょう。

 

そのストレスフリーを得る代わりに、国内の安定を致命的にまで落ちこませたのが、ミャンマーという国だと思っています。

 

日本でも関東と関西とか、地域差はありますが、根っこでは繋がってる感じがしますよね。何が違うんでしょうか。こういう点に着目した文化比較学の論文とかないのかな。

 

中国も多民族国家ミャンマーは中国から学んだ方がいいと思います。アメリカも多人種国家、こちらも参考になることはあるでしょう。

 

とりあえず、普通は、考えないと上手くやれないですよね。

感謝を忘れない

色々な他力によって今の私の生活は成り立ってますが、やっぱりそれを認識すると感謝の気持ちが湧いてきます。

 

「お米を作ってくれてありがとう」

 

「インターネットを整備してくれてありがとう」

 

「水を飲ませてくれてありがとう」

 

「犯罪を取り締まってくれてありがとう」

 

こうして見ると、私も何か役に立ちたい!と思うのですが、やっぱり一番効率の良い、費用対効果がでかい急所に、労力をぶち込む、という発想になりがちです。

 

それはどこかというと、やっぱり教育なんですよね。だったら教師になればいいじゃん、とも思うのですが、今の義務教育とか、高等教育の枠の中で、やりたいことはあんまりなくて、どっちかというと人間の精神改造的なマッドなやり方でいきたいので、

 

もし教育の現場でアクションを起こすならば、既存の教育を壊すところから始めないといけない、それってしんどいし私にとっても社会にとってもリスク大きいな、としり込みしちゃいます。

 

正社員にあんまりなりたくないのも、派遣じゃなくてもし正社員となったら、会社のやり方が気に入らなくてまず経営陣をどうにかしてクビにすることから始めよう、となります。それが最善手ならそれをやる以外選択肢ないですから。やり方が気に入ったら、いいんですけど、なかなかそういう会社は巡り合えなさそうです。

 

そういう状況なので、ブログで情報発信するのはそこそこ費用対効果でかいし、誰にとってもリスクないし(読んだ人が危険思想だと思ったら捨てればいいだけですから)平和だなぁと思います。

 

一番現実的なのは、自分の行動による成果に、自ら上限を設ける、ということですね。

 

例えば、プログラマーになって、納期通りに良い品質の製品を納めて、顧客から感謝される、そして製品のユーザーも嬉しい、みたいな一種の「妥協」。

 

できることをやって(まだプログラミングできないですが)、そこそこの成果を得て、社会貢献して、生きていく、それがまっとうな生き方だと思います。

 

なぜそれができないのか。妥協が怖いからですね。

 

自ら可能性を閉じること、これが一番怖い・・・自殺と等しいと思います。

 

これをやるくらいならば、最初から生きるべきではない、くらいに思っています。

 

なんなんでしょうね、このくだらないような、大事なような変なこだわりは。

 

まだまだ未熟ということでしょうね。