日本では、アメリカと違って、国民が銃を所有することは、原則認められていません。
それは、治安維持の保安の役割・責任を、
アメリカ国民は個人が一部担っているが、日本国民は、ほぼ全て外注していることの表れだと思います。
この比較において、人を肩書き毎の層の重なりという視点で見るとします。
アメリカは「個人」の層が厚く、「国民」の層は薄いです。自助努力で、なんとかするスタイルですね。
一方、日本は、自分に関係する大事な意思決定を上位者に委ねるスタイルで、「国民」の層が厚く、「個人」の層が薄いです。
こういう肩書きの層を意識するということの意味は、
・自分の最適バランスのライフスタイルがわかって幸せを実現しやすい
・自分の肩書き・役割をきっちり定義することによって、言動に筋が通る
というものになります。だから、今この日記を書いています。
で、アメリカと日本の比較から離れて、基礎から改めて肩書きの層を考えてみると、
肩書きの層は、ピラミッドのような積み上げられた層によって構成されています。
最下段は、「生物」の肩書きです。これが基本だと思います。
で次の段に「個人(私人)」の肩書きが積まれます。自分に名前があるという自覚がそれです。
次の段に「国民」の肩書きが積まれます。生きていくために、安定したライフラインを確保するために、大きなまとまり「国」のメンバーである自覚があります。だからこそ、法を遵守し、税金などを支払っています。
次の段から、組織・コミュニティの肩書きになります。
下から「家族」、「会社・学校など」・「趣味とかのサークル」です。
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組織・コミュニティ
国民
個人(私人)
生物
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図示するとこうなります。
で、今の日本は、「個人」の充実をしたい、つまり、リソースを「個人」の肩書きに重点配備したいのに・・・
「国民」としての責任・負担を追及されて、「生物」あるいは「個人(私人)」としてのキャパシティが不足している状況だと思います。
高い税金を払えなくなり、「生物」として生命の危機に瀕して、自殺する・・・みたいなことですね。
実際に、自殺があるのは知っていますが、その詳細とか、規模とかが私はわかっていないのですが、
ここで大事なのは、「自分の肩書きはどのような配分なのか?」ということを特定することです。
例えば、あんまりいないと思いますけど、自分は「生物であり、個人である。それ以上ではない!」というアナーキーなスタイルであるならば、
法律無視の犯罪やり放題で、奪いたいものを奪い、殺し、という生き方になったり、「自分の好きなように独立国家のような王国を作る!」みたいな動きをすると思います。
いや、そうじゃなくて、「国民」であり、「会社員」でもあるから、ルールは守るよ、と言う人がほとんどだと思いますが、
例えば、若い人で、管理職の責任の重さを忌避して、ヒラ社員で働いて、給料そんなに高くないけど自分の生活を充実させたいよ、っていう価値観があります。
そういう人は、
「私は個人(私人)である」が、そこまで「国民」でありたくないし、必然的に「会社員」でもありたくない、そこにリソースを費やしたくない、といったバランスだと言えると思います。
で、他方、政府・財務省は、「国民」であれよ!という作用を生んでいますね。
所得に対する税負担などの割合が5割に近いというニュースを見たことがあります。
「個人」でありたい気持ちと、「国民」であれよ!の作用の綱引きですね。
で、こっからなんですけど、
「国民であれよ!」と言われて、「じゃあ国民であろうか」または「ふざけんな、私は個人としての利益を追求するんだよ!」と思うこととは無関係に、
「自分は、どの程度『国民』をやる気があるんだろうか」ということを、
「自分で決めて欲しい」んですよね。
政府が言ってるから従う、又は、政府が言ってるから反発する、のではなくて、
「自分は国民としてはこのくらいのリソースを割く」から「この納税は許容しよう」or「この納税は異議申し立てする」っていう
姿勢を正して欲しいなぁと思います。
何でかって言うと、政府と国民が綱引きゲームに嵌まってても、グダグダだからですね。激しいデモ活動してる人は、自分たちをグダグダではなく、むしろ勇ましいと見ているかも知れませんが。
「結果的に、綱引きになる」ことは良いと思います。綱引きすること自体を否定しているわけではありません。
私が言っているのは、
その綱引きをする以前に、ちゃんと自分の肩書きを整理して、自律的に確認して、それに基づいたアクションを取る、というプロセスを丁寧に取らない限り、
永遠に「支配者」と「被支配者」のグダグダ対立、ただの責任のなすりつけ合い・消耗と疲弊しか得られないということです。
「オレは国民として、ここまではするよ。でも、これ以上は交渉だな」という建設的な態度があると、
その対立には意味が生まれます。意味とは、「骨折り損のくたびれ儲けを回避できる」という意味です。
って長々と書いたんですけど、
私の言ってることってすごく地味な、ステルスっぽい工夫ですけど、
これやるのとやらないとでは、長期的には結果に雲泥の差が出ます。
というアイディアを放っておいて、やる人はやるし、やらない人はやらないのでしょう。
私は国民としては「個人」の6割のリソースを割いて、税金とかはちゃんと払おうと思います。
「こりゃ許せん」というような政策が決まったら、何か異議申し立てすると思います。
おわり