デモ活動って、私はあんまり好きじゃありません。
本質的には、多数の勢いに任せた「脅し」だからです。
大きな流れを作って、それに大勢の他人を巻き込んで、願望を通すというやり方です。
私は、基本的にソロプレイヤーなので、
各ソロプレイヤーが、自分の意見を正直に発信して、その集合において「たまたま」、「大きな流れができちゃったね」「そういうこともあるよね」
という認知が好きなんです。
なので、今日のNHKのニュースで、反イスラエル・パレスチナ連帯のデモ活動をする東大などの学生のキャンピング・デモ活動を見ましたけど、
「一人一人が、ツイッターでもブログでもいいから、意見を発信すればよくない?」
「なんで大学側に、反イスラエル声明を出すように要求するのかな?」
「なんで肝心な所を、大学頼りにしちゃって、個人でやるのはダメなの?」
という疑問が湧きました。
その答えは、「一人の力は弱いけど、仲間が集まって大きくなれば、影響力を持てる」
というものらしいです。
なるほど、そもそも「一人の意見なんて、塵芥である」という認識なんですね。
私は、マイノリティーである自覚があるので、ちょっと意見が違います。
まず、「一人の個人の考えや、正直な発信が、些細なものであるとは思いません」。
「自分一人の声は、簡単にかき消されるから、結果、世の中は動かせない、だから無意味だ」
っていう判断はしていないということです。
これも「そもそも案件」なんですけど、
「自分一人の発信によって」「世の中を動かそう」とは思ってないんですよね。
そもそも「世の中を自分の都合の良いように塗り替えよう」という発想がないです。
「たまたま」「自分と同じ考えで、同じような内容を発信している他人が多くて」
結果的に「都合の良いように世の中変わっちゃったね」っていうことはありえますが、
それを狙ってやるという発想はありません。
だって、世の中には、自分とは違う色々な考えの人・色々な事情を抱えている人だらけですから、それを「お前らオレの都合の良いようにせいよ」とはなかなか思いません。
一方で、デモ活動で、自分の願いを通そうと、実際に行動している人もいる。
これはOSの違いなんだろうな、と思います。
基本的に、「みんなで」「大きな流れに沿っていく」という手段縛りがあるんだろうと推測します。
何をするにせよ、「みんなで何かの流れに沿う形しか取らないのだから」
「その流れをまともなものにしないと死活問題になる(下手すると奈落へ落ちる流れに乗ってしまうリスクがある)」
「だからこそ、まともな流れを『造らなければいけない』」
っていうことなんだと思いました。
なるほど、そういうことなら、「平和を願うデモ活動」は、正着かもしれませんね。
私は、大きな流れなんかガン無視して、自分の正直な気持ちを以て、(全身全霊の)大河の一滴になる!というスタイルが好きです。
それによって世の中が変わることも、「理論上は」ありえます。
情報世界という解釈においては、それが合理的にありえるからこそ、「やっている」んですけどね。
世の中にはマイノリティーの人もいますので、
「頭数のパワーゲーム」も(みんなで流れるの縛りがあるという理解によって)否定はしませんが、
「一人の正直な気持ち・発信なんて塵芥だ」
という認識については、「必ずしもそうじゃないよ」と言いたいです。
日記を書いていると、色んな理解が深まりますね。
私の勝手な推測に基づく理解なので、精度が高いのかはわかりませんが、
とりあえず、納得して、デモ活動する人のことをありのまま許せるようになったので、
「一歩前進できたな!」と思いました。
とりあえず、ガザでの虐殺は、私もやりすぎだと思ってるので、
ネタニヤフさんはなる早で退陣して欲しいと思います。
おわり