中国についての本を主に通勤電車の中で読んでいるのですが、
読み終わるまでに時間がかかるので別のテーマを間に挟もうと思います。
今回は、私が忌み嫌う「争い」についてです。
なぜ争いが嫌いなのか、その原因は何だろう?
やっぱり一番は、「めんどくさい」から。
具体的には、
・エネルギーを使う割りにリスクがあって利益が少ない場合が多い。
・そして仮に勝ったとしても、2次損害(相手から恨まれる、自分の心に敵意が居座る)が残ってしまうので嫌なのです。
私は人から恨まれたくないし、敵意も持ちたくないんです。
前者は私の安全を脅かすし、後者は不愉快だということ・・・それが全てのような気がします。
つまり私は「自分を守りたい」という生存本能に基づいて、争いは割りに合わないと思い込んでるんですね。
極めて単純で、ひ弱な心だと思います。
私はこの自分の心があまり好きではありません。一言で言うと「投資価値がない」。
もっと強くなりたいのですが、これについてはひとまず置いておきます。
さて、争いといえば現代で問題になっているのが国の内部紛争です。
以前のブログで「内紛をすることなんて日本人の自分からしたらバカらしい」と書いたのですが、本などで得た情報によると、
どうやら未成熟な国家においては、この権力を巡った武力衝突というのは付きもののようです。
まともな国になるために必ず通らないといけない道、ということ。
私はここに疑問符が付きます。
争わずに平和的な解決をする手段も取れるのでは?と思うのです。
この選択肢が取れない事実の背景には、国民当事者間での利害衝突による「憎しみ合い」があるのでしょうか。
平和的な解決方法というのは、ある程度人間関係が構築されて初めて切れるカードだという事でしょうね。
隣村のやつらと親睦を深めようと思っても、縄張りを荒らす相手と仲良くなるのは難しそうです。
そもそも「縄張り」という概念の前提がある時点で、「身内」と「よそ者」の間に物理的&心理的な壁があるってことですからね。
日本の農村でも、都会から村に突然引っ越してきた人が中々その社会に溶け込めないという話を耳にしたことがあります。
生活を維持するための「仲間」というのは、良い面もあるけど、被害が出るリスクもあって、その相手に求める条件というのは高くなりがちなんでしょうね。
ここでそもそもの話なんですが、争いってそんなに悪いことか?という発想があります。
生物の食物連鎖のシステムは、捕食という「争いの一種」をその根幹に備えています。争いを否定したら、生物やってられないんです。
つまり人間にとっては、争いをすることが不幸なのではなく、
争わずに済む方法を知っていながら、争いを否定することができないことが不幸なのだと思います。
身を縛る「争いシステム」の鎖が肉に食い込んでいるんですね。
この不幸な状況を脱するためには、「争い」をコントロールしなきゃいけません。
今回はここまでにして、次回はその方法について考えてみます。では~