私は人間として死んで、普通に滅びへの過程を辿ると書きましたが、
噂では、やっぱり上にいくようです。
しかし、もはや「予定」のことは常に確定的ではないし、私には裏が取れないので、
人間として寿命で死を経て、もし上にいくようであれば「そのとき初めて」考えようと思います。
結局、生者の人間社会というのは、ある種の均衡現象であって、
それをどうこう制御することについては、ドライバーは人間ではありません。
強制力を行使するドライバーは人間ではないけれど、そのドライブの方法論の縛りからいって、人間にある種の依拠をしているのも事実なので、
私の人生で見られたように
「私がドライブしている風だけど」「実際にはドライバーは別にいて」「確定的・決定的に事は進むけれど」「それは私の行動の結果の反映でもあるよ」
というよくわからんレトリックが用いられていて、
おそらくこのような困惑は、私以外の人も覚えがあるかもしれません。
世界の頂点というか「ペットボトルのキャップ」みたいな機能性は存在していて、
その頂点のキャップ以外は「滅べよ滅べ」なのですが、
当然、「はい、滅びます」とはならないので(苦しいから)
「あがき」が起こるのですが、
大体みんなもうわかってきて
「無理だから、勝てないの分かってるから、あがくのも嫌です」みたいな風潮があるように、私の目には映ります。
人間目線でいうと、例えば
「明らかに商売舐めてるブラック体質の企業で従業員として働いて」
「効率的とは正反対な悪環境下で、結果の数字を求められ」
「苦しんでいるときに」
もうみんなわかってるから、
「あ、この会社確実に近いうちに潰れるから(滅びるから)」
「がんばってあがいても無意味だな」→「転職しよう」
あるいは
「転職できそうにないから」→「会社が潰れるまで給料もらい続けよう」
っていうことになるのが、現代に生きる私の感覚です。
でも、期待されているのは・・・
「この会社近いうちに確実に滅びるけど」
「この会社はもう、生き返らないけど」
「がんばってあがいて、心と身体にむち打って働いて」
「そのあげくに、結果がでずに、敗北することを受け入れよう」
っていう行動なんですよね。う~ん理不尽。
ただ、世界が屍バタバタが本質であるのであれば、
こういうあがきも、それほど狂気ではないのかなと思います。
本来であるならば、
「会社の未来はどうなるかわからんけど」
「とにかくこの労働環境が苦しすぎてもう辛抱たまらんから」
「あがいてやる!絶対に勝ってやる」
って思って、
「その結果、何らかの成果を出して、その後に風呂敷をしまう(敗北する)」
っていうのが王道というか、メジャーロードだと思うんですよね。
それが崩れてきてる。滅びの構造が、日の元にさらされて、舞台裏が見えてきちゃってるから。
という問題がありますよ、と。
しかし、基本的に、滅びの圧力は常にあるので、
「もしかしたら上手くいくかもしれない」という淡い期待自体が、
ズレている、とも言えるので、
「どうしたらみんなあがいてくれるん?」という課題については、
「元気な奴の尻に火を付けるしかないんじゃないの」という答えが最も明白に表れているということになっています。
そうやって尻に火が付いた(付けられた)経験のある私が述べていますが・・・
もっとソフトに言うと、
「もしやる気とか、元気がある人なら」
「あんまり小賢しく考えないで」
「がむしゃらに、望みに手を伸ばして、がんばってみるのもいいんじゃない?」
という表現を私はリリースしておきます。
「簡単に滅ぶんじゃねえぞ。絶対に退くんじゃねえ」
という発破も置いておいて、
あがき祭りの果てに、
単なる均衡状態である人間社会が、
なんらかの表情を変える可能性はあるんだろうなと思います。
いわゆる「希望」のような光かもしれません。
おわり