正しさについて考えてみた その2

人はなぜ「正しい」という概念を持つのか?

 

裏を返せば、「間違っている」ことを否定するために正しさがあるのかもしれません。

 

人が何らかの理由で不利益を被った時、その中で犯人を見つけないといけない精神的圧力が働くのでしょうか。

 

犯人=間違っていること がわからないとどうなるのか?

 

まず思いつくのが「改善ができない」という問題。

私は週に一度意識が薄くなってフラフラになるのですが、この原因についてあれこれ考えました。

 

スポーツ飲料やカルピスを毎日飲んでいたので、果糖ぶどう糖液糖の取り過ぎ?と思い、飲み物をミネラルウォーターと無糖コーヒーに切り替えたところ、一部の症状が改善されました。

 

「間違った」生活習慣を改めて、病気を治すという改善のパターンはあっても良いと思います。

 

しかし、「全て」の問題に対して原因を特定するのは無理があると思います。

「正しさ」を追求しても、すべての障害が取り除かれる保証はないのです。

 

例えば内戦状態の国内で、テロなどにより日常的に生命が脅かされている人たちがいます。

 

日本人からすれば、内戦をすること自体がバカげているように見えるのですが、

当事者の反政府勢力は独自の「正しさ」を持って戦っているのでしょう。

 

どんなにクレイジーに思えても、彼らには戦わなければいけない理由を持っているという事実によって、内戦は必然的に起こっていることなのです。

 

これは他を蹂躙する「正しさ」です。

彼らの正しさをどれだけ否定しても、のれんに腕押しで意味がありません。

 

被害者の国民は自分の「正しさ」を一旦脇に置いといて(我慢して)、

内戦当事者たちの「正しさ」についてよく知らないといけないのです。

 

異なる正しさの落としどころを見つけて、それを実現するという難しいアクションが必要です。

 

ここで明らかになったのは、「正しさ」とは「自分の欲の肯定」だと言うことです。

 

欲を確実に、効率的に満たすために、「正しさ」という形式に落とし込んでシステマティックなアプローチをしようとする志向です。

 

私の「正しさ」は、健康的な生活、そして、欲しい情報を手に入れるという欲を肯定することです。

 

このためにどこかで他を蹂躙することがあっても、躊躇わないかもしれません。

そういう意味では、私もテロリストも構造的には同じです。

 

道徳が頭ではその正しさが理解できても、実践するのが難しいのは、

大多数の人間の欲を同時に満たすための方法論は、窮屈で、旨味が少ないからです。

 

確実なのは、一部の人間を犠牲にして、一部の人間の「正しさ」を実現するというものです。

 

この世が格差によって支えられている事実は、道徳による均等小幸福分配よりも、少数にターゲットを絞った大幸福集中の方が、エネルギー循環がスムーズである(=力強い)ことを現しています。

 

左翼と呼ばれる社会主義者の人は、幸福を均等に増やすという「正しさ」を持っていますが、その考えの中に、社会全体のエネルギー循環システムについてイメージが欠落しているため、流行らないのだと思います。

 

経済成長が鈍化して規模縮小に向かう日本が持つべき「正しさ」とは、新たな「欲」の開発によって道が拓かれると思います。

 

「健康に生きたい」などの不変で普遍的な欲は均等分配でいいとして、

この世界の「新しい幸せの形」をモデル化し、それに従って不公平なピラミッド構造を構築することが現代社会の課題だと思います。

 

私は変わらず無限動力の好奇心を武器に、情報収集ピラミッドの頂点を目指して行きますが、これはあまり人気が出そうにないので成功しても小山の大将かもしれません。

 

今回考えて、正しさ=欲の肯定 でいいだろうと結論がでました。

このシリーズ長くなるかと思ったらすぐ終わってしまいました。これにて終了!