幸福について考えてみた2

日頃、幸福感を感じることがあまりないです。

 

ひどくイライラしたり不安になったりはしないけど、ずっと軽いマイナスの感情をキープしてるような状態。

 

たまにプラスになるときもあるけど、トータルで言うとマイナスの方が大きいです。

 

これって私独自の現象なんでしょうか?

他の人は、ずっと幸福感で満ちてる生活をしてる人もいるのかな?

 

不満の元がないと幸福も感じないと思うので、幸福感が大きい人は不安やイライラも大きいのではないか・・・と予想します。

 

つまり、みんなトータルではマイナスなんじゃないか?とふと思いました。

 

人間は、神様の仕掛けた詐欺システムに組み込まれているのでは?なんていうことも思ってしまいます。

 

一瞬、浮かび上がるプラスの幸福感を求めて、マイナスの状態に甘んじているとしたら、これはまさに「パチンコ依存症」の仕組みそのものですね。

 

パチンコは店が儲かるような設定になっているので、打ち始めた瞬間に負けが確定します。テラ銭(賭博の場代)を取る公営賭博なども同じです。

 

負ける(金が減る)とわかっていながらパチンコにのめり込む動機とは、大当たりしたときの快感がとても気持ちいいからです。

 

客観的に見ると、大金をつぎこんで大きなマイナスになっているのだから、正気の沙汰ではないですが、

 

本人からするととても合理的な行為であることも事実なのです。

 

つまり、パチンコ依存症の人は「持ち金が減っても構わないから快感が欲しい」という価値観を持っているのです。

 

普通の人は、「持ち金が減っても構わない」とは思いません。

 

この「構わない」と思えることは、ある意味、「強さ」だと思います。

普通の人が払えない犠牲を、払うことができるという強さです。

 

言い換えると「資本力がある」ということです。

 

幸せになるためには、何らかの犠牲(コスト)を払う必要があります。

もしも他の人にとって「価値があり」、かつ、その人にとって「どうでもいい」ものを犠牲として払うことができたら、その人にとって丸儲けです。

 

そのいびつな価値観そのものが、幸福になるための大きな資本力となります。

 

私の場合は、「幸福感なんてどうでもいいから好奇心を満たしたい(必要な情報が欲しい)」といういびつな価値観を持って、結果、大きな満足を得ました。

 

この得られた満足と、犠牲にした幸福感を天秤にかけると、おそらくトータルでは負けになります。

しかし、私は後悔しておらず、今でも間違ってなかったと思っています。

 

この心理状態は、まさに「パチンコ依存症」の仕組みそのものだということに気付きました。

 

つまり、「パチンコ依存症」もひとつの幸せの形と言えるのではないか、と言いたいのです。

 

パチンコ依存症」の戦術とは、

自分にとって価値のないものを大きく犠牲にして(資本力をつけて)

自分にとって価値のあるものを集中して獲得する、というものです。

 

私とパチンコ依存症の人の差とは、その手段にあります。

私の場合は、頭でウンウン考えるだけなのに対して、

パチンコの場合は、金と時間がかかります。

 

パチンコ依存症の人は「金が減っても構わない」という頭なのは間違いないですが、現実問題として金と時間の浪費は致命的な問題です。

パチンコ依存症が病気とされているのは、社会的な価値観から問題ありだからですね。

 

戦術論でいうとこれはちょっと極端な例になりますが、

パチンコ依存症の仕組みである「マイナス状態に甘んじて大きなプラス(快感)を求める→結果トータルで負け」は、おそらく普遍性があるのではないかと思っています。

 

つまり、幸せな人(ずっとプラス状態→トータルも勝ち)なんてこの世に存在しないんじゃないか?という指摘です。

 

非常に裕福な人がいたとします。その人はお金をたくさん使って(コストを払って)多くの快感を獲得できます・・・これは幸せと言えるでしょうか?

 

もし、その人にとって最も価値のあるものが金で買えるものならば、幸せなのかもしれません。

 

私の場合は、価値のあるものが金で買えないものなので、これは想像するのが難しいです。

 

「金持ちのパチンコ依存症」というのはあり得るでしょうか?

 

金をうなるほど持っていて、パチンコの大当たりで快感が得られるとは考えにくいです。この辺、世の中簡単じゃないな~と思います。

 

私が何かを考えるときの情報元は自分自身に大きな比重がかけられているので、自分とは違う快感を感じるケースを想像できなくてもどかしいです。

 

色んな人の頭の中を体験するようなバーチャルリアリティーが欲しいな。