好きなことしか努力できない

勉強してて思ったのが、私は好きなことならがんばれる。でも好きや楽しいがないことはがんばれないな、ということです。

 

数学は、今ちょっと好きなので、この小さな灯を守って育てて大きくしていくことが、基礎として必要なことなんじゃないかと思います。「好きの灯」が消えかけてるなら、例えば5日間勉強サボることも辞さない構えです。カッコいい。

 

Youtubeには、色んな分野の有名な人がいて、環境+才能+努力で突出することができました!みたいな人を見ますが、社会にとって本当に重要なことは、全員が進歩して全員及第点、あるいは平均点が及第点、を目指すことだと思います。

 

社会の構成員の平均が及第点なら、まぁまぁいける、全員が及第点とれたら余裕でしょう。みんな適当にサボったり休日にバカンスしたり、ギリシャ人みたいな生活して、経済も回る、プライベートで趣味を楽しむ、みたいな環境が手に入ります。

 

と言ってる私は無職なので、及第点は取れていないかもしれませんが、税金は払っているのでギリギリ許容してほしいですね。こだわりを捨てられないのであんまり会社で働きたくないです。本当に経済的に自立しようと思ったら、起業するしかないですね。

 

起業してビジネスの世界に入るのは、自分の裁量次第で自由な選択が可能なので、やりがいはあると思いますが、肝心の「金を稼ぐ」ことに対して興味が持てないので(どんなに金があっても満足できない)、多分、勝てないだろうな、と予想しています。金儲けエンジンが弱いんですね。

 

ソフトバンクの孫さんのように「現代のロスチャイルド家になる!」みたいな夢もないですし。あれが不思議なのは、ロスチャイルド家は18世紀くらいに活躍した富豪で、21世紀の人間が全く同じことをやっても今の需要にマッチしないですよね。もし今だったら、金の総量に物を言わせた支配的な投資活動じゃなくて、エネルギー資源開発とか、経済政策の研究とか、そっちの方が重要だと思います。投資家のお金は余ってますしね。それでもロスチャイルド家になりたいというのは不思議なモチベーションです。

 

このことを話したいのではなくて、私はモチベーションの話がしたかったんだった。タイトルにある通り、私は好きなことしか努力できません。そして、これは他の100%に近い人がそうなんじゃないかと思います。

 

なんでかな~これ解決したら賞もらえるな、と思ってるんですが、イメージとしては、努力は潜水みたいなもので、「酸素」がないと深く潜れない。酸素が少ないと、潜水時間が短くなる、つまり、練習時間(努力し続ける耐久時間)も短くなる、よって技術の習得が遅くなる。

 

まぁ、ゆっくり習得でもいいんですけど、速く習得できるならそれに越したことはありません。カードのひとつとして欲しいですね。

 

「酸素」に例えたものが何に該当するかというと「ナントカという楽しい脳内物質」なんだと思います。そこで思いつきました。

 

何か薬物を投与して、「楽しい脳内物質」を6時間くらい持続して出すようにすれば、「好きでもないことを1日6時間楽しく練習できる」となりますね。

 

この技術は人体にあと他に関しても、けっこうリスクが高そうですが、方向性としては間違ってない、投薬という手段がちょっとまずい、という感じですね。

 

ナチュラルに、「楽しい脳内物質」を安定放出できるようになれば、「努力は後からついてくる」そんで「さらに結果が後からついてくる」という2段構えのサクセスが手に入ります。

 

努力できなくて悩んでる人も、「所詮、脳内物質の匙加減でしかない」「物理的な制約を外せるか外せないかの問題」だと思えば、悩むような類の事じゃないですね。

数学は旅行気分で

今、高校数学の「数学A」を勉強しているんですが、「数学Ⅰ」と比べて、進捗がサクサク行って楽しいです。

 

数学Aは順列とか組み合わせとか確率の範囲ですが、確率等はギャンブルでも使えるので、方程式をこねくりまわすタイプの計算より、体によく馴染んでいます。

 

ちょっと難しめの問題を解いてみて、答え合わせをしたときに、模範解答と、自分が解くときに取った方針が同じだと、嬉しくなります。

 

これは一種の知的共感なのでしょうか。私の姉は、数学が好きで大学で数理を学んだほどですが、他方私はティーンの時、答えが一つしかない数学をどうしても好きになれませんでした。どっちかというと「解釈」を問われる国語の方がエキサイティングでした。「誰にも思いつかない答えを示そう!」とかそうゆう希少価値を追求するモチベーションで想像力を働かせていました。

 

しかし、最近数学Aをやってみて、「答えはひとつだけど、そこに辿り着くためのルートはひとつじゃないんだ」と気づきました。

 

特に確率なんかだと、問題で求める確率は、異なる試行パターンの和であることが多く、問題文をインプットして、求める対象の「全体像を把握して」「個別に扱わなくてはいけないパターンを見切る」ことが必要になってきます。

 

それをやっているときは、まるで旅行に行く前に「飛行機でいこうかな?新幹線でいこうかな?」とか「どういう電車の乗り換えで行こうかな?」という、旅行計画を立てているときのような楽しさがあります。

 

そんで、模範解答と同じルートを自分が選択したことがわかった時は、「よっしゃ同じだ~」と嬉しくなります。まるで先生に褒められたような気持ち。現在教職をしている姉も、おそらくそれが楽しかったんでしょう。

 

ティーンのとき私は友人に「どうして宿題しないの?」と聞かれて、「点が要らないから」と淡々と答えていたんですが、40になって先生に褒められる喜びを知るという、成長なのか、成長していなかったことが証明されたのか、よくわからない発見があって、人生は面白いなぁと思います。

 

数学Aは現在50%くらいの進捗で、コツコツやって数学ⅠAのゴールを果たしたいと思います。それが終わったら、今度は同じ教科書の実践問題を最初から解きなおしです。

 

1週目は自信なさげに自分の足元を見ながらヨタヨタ歩いていましたが、2週目はもっと視野を広げて、普通に歩けるようになればいいなと思います。

 

世界の景色が違うことに気づけたら、それは素晴らしい体験になるでしょう。

 

民主主義と独裁主義

ある思想家さんのツイッターを見て、「民主主義は、独裁政治に走ろうとする権力者を市民がコントロールする目的のために誕生したものだ」という内容の文章を見て、なるほどそうなのか~だから民主主義国家は独裁国家を敵視するんだな、と納得しました。

 

独裁をすべきか、又は、独裁者を無力化するべきか、に関しては、考え方の違いなので、どっちが正しいとかいうものではないと思います。

 

私は独裁でも民主主義でも結果が出せればどっちでもいいし、社会システムなんて人間が生活する家屋の内装くらいにしか思っていないです。どういう内装だと快適か、とかそういう嗜好のレベルの話なので、それで争うのはやはりナンセンスだと思います。

 

コーヒーと緑茶どっちが好きか?で争うことがナンセンスだということはおそらくほとんどの人が同意すると思います。しかし、民主主義を確立するために、しばしば独裁政権との血みどろの闘いが発生するので、嗜好バトルであっても、対象がめっちゃ高価なものになると、自然に「殺し合いしよーぜ」と躊躇しない態度になりがちなんだなぁ、と解釈しました。

 

実際に権力を得たり奪ったりしていない私からすると、民主主義的な独裁が好きです。これは内装の快適さ、もあるんですが、機能性重視の視点で言っています。それに最も近いのが中国なので、中国を応援したいと思います。(機能するなら純粋な独裁でも、純粋な民主主義でも、どちらでもいいですが)

 

で、私の好きな形に中国が最も近いといっても、現時点の中国はウイグル弾圧など、手探りで未発達な手段を用いていることは確かです。簡単に言うと未熟ということですね。

 

で、未熟なのは良い結果を出さないからダメ、というのはごもっともなんですが、

 

階段を上る行動のうち、重要な点は「どの階段ルートを進むか」の方向性の問題であって、「今どのくらい高く階段を昇れているか」の進行度はあまり重視しません。

 

正しいルートを行っているならば、別に0段目でも1段目でも、100段目でも、あんまり変わりません。今0段目の人も、1段目の人も、100段目の人も、時間が経てばもれなくゴール(正確には中間ゴール地点)に到達することがほぼ確定するからです。

 

問題なのは、「袋小路に続く階段を無意識的に選んで、進行度(速く進むこと)を重視する」ことです。これをやると「壁激突大ダメージ」がほぼ確定するので、避けた方がいいです。

 

しかし、世の中や歴史を見てみると、これを積極的に選んでいる国や人が多いですね。上記の、私が示した「階段ルートメカニズム」と、歴史を併せて参照すれば、この問題に気づくことは簡単なんですが、それを不要な情報だと思って追跡しない、捨てる、ということをやっているケースが多いんだと思います。

 

イーロンマスクさんのように、「引き返す予定を組み込んだ上で」積極的にイノベーションの袋小路に突っ込んで、確かめようという行動ならアリですが、本気で袋小路に突っ込むのは自爆以外の何物でもありません。

 

よって、私が言うのは「もし袋小路に集団でいくならゆっくりいこう(激突ダメージを抑えるため)」もしくは「一番確実な中間ゴールを目指そう」です。

 

で、この中間ゴールというのが独裁制民主主義ですね。アメリカもこれを目指すのが良いと思います。ただ、アメリカ人は束縛による不自由を過度に嫌うので、そういう意味で、理想形に「今」一番近いのは中国ですね。

 

そんで中国も、何を目指しているのかわからないし大国で小回りが利かないので、ルートを外れないように小さい周辺国がガイドする必要があります。

 

そういう役割を日本が担う、というのが良いと思います。私は日本人なので、今それをこの日記に書いています。

 

アメリカは、この世には独裁したい人がたくさんいることを認めて、その人の気持ちもちゃんと考慮して欲しいです。

 

独裁は「下手かますとひどいことになる」ものですが、未来には「上手な独裁」も存在します。だから、独裁したい人が「上手な独裁」ができるようにする、という道もありますと言いたいです。

 

その道を行くと決めたら、「現状があまりにも発展途上すぎて」嫌んなる、未熟な自分を認めたくない、とかいう発想があるんだと思いますが、

 

私はそれが「中間ゴールに達する」道であると知っているので、未熟でも「勝ったな、安心だ」となります。

 

繰り返しますが、問題は、「袋小路に向かって爆走すること」です。それを避けるには「ゆっくり行く」、「引き返す予定を組み込む」、「確実な道を選び直す」です。

 

よろしくお願いします。

Web3について少し勉強してみた

久々にnoteにアクセスして、お気に入りの「人文学カテゴリ」を見てみました。すると、web3とかメタバースとかNFTとかの記事が7割を超えていて、ビビった・・・。

 

ツイッターでもWeb3業界の悪口とか、過去にたくさん目にしていて(最近は表示頻度が少なくなったけど)、用語がわからないしもういいよーと思っていました。

 

しかし、せっかくnoteに記事があるんだから、ひとつ見てみるか(食わず嫌いはよくないし)と思って、ブロックチェーン技術について説明している記事を読んでみました。

 

わかったこと・・・

・Web3は、インターネットにおける脱中央集権、分散管理の構想イメージ

ブロックチェーンは、複数ノードの連携体を形成し、Web3構想を具現化したもの

・運用にはマイニングするノードが必要

・NFTは、ブロックチェーン組織内で発行されたトークンで、アート作品などのNFTは、Web上の画像データと紐づけられている

 

こんな感じですね。読んだnote記事には、上記の内容をプログラミングコードで、実際にどのように記述するのか示してあって、具体的なことは依然わからないんですが、全体像をぼんやりとつかむことができたような気がします。

 

で、感想は、ブロックチェーン技術は、現状だとハードウェアへの負荷がかなり高いな、という印象を持ちました。一言で言うと「大がかり」なシステムですね。

 

例えると、Web2は大型スーパーにお客みんなが車、電車、徒歩等で行って買い物をするのに対し、Web3は宅配サービスで、みんなの家に運送屋さんがそれぞれ商品を届けて、プラス何の商品が届いたかを近所の回覧板で共有する、みたいな手間数のかかるやり方です。

 

この例えをさらに利用してみると、現在、ネット通信販売などが盛んになっていますが、同時に、配送業者の人手不足、過重労働が問題になっていますよね。この方向性は、ある種のどんづまりに入りつつあるので、ネット通信販売は無くなりはしないけれど、商品を個人の家に配るのではなく、ある程度大きな公的な受取所(物流の最終点)を設けて、みんな家からそこへ取りに行く、みたいな感じに落ち着くんじゃないかと予想します。

 

なので、この予想をWeb3に投影してみると(予想が当たっているかは謎ですが)、おそらく現在のブロックチェーン技術では、Web3を全世界展開するのは難しそうだと。となると、Web3の内部に、中央集権的な効率のよい計算手法を取り入れることにより、全体の計算コストを削減する方向に向かうのではないかと思います。

 

インターネットの広域をWeb化(Web2)→分散管理の導入(Web3)→Web3が中央集権的な構造を内包(Web3.1)

 

みたいなシナリオが、一番現実にありそうだな、と予想します。

 

で、話は変わりますが、私プログラミングコード見てみて、「難しい」は難しいんですが、率直に「目が悪いのと、アルファベット文字を読むのが遅いので、なんて書いてあるのかわからない」という壁にぶつかってしまいました。

 

慣れてくれば負荷なく読めるようになるのかな・・・「速読」のスキルがあったら楽だろうなぁ。「数学的センス」と「速く文章を読む(憶える)」これが両方あったら、多分コードを解読するのは非常に楽になると思いますが、私にはどっちも無いです。

 

レーニングあるのみか。なりたい自分になれるよ、おーはらおーはら本気になったらおーはら♪

ニーチェの哲学

カントに続いて、Youtubeニーチェ(1844~1900)の解説動画を見ました。動画はサックリしたライトな解説だったので、ウィキペディアも参照しました。

 

ニーチェはカントの流れを汲んでいる

カントは理性の構造解明に着手しているので、その流れを汲むということは「より詳細に理性を読み解く」か、「理性の構造をインプットとして、次段階へ進む」のどちらかになると思うのですが、ニーチェのアウトプットは「具体的な思想」となっていて、やや的外れ(カントを応用するという観点では的外れ)だなぁ、本当にカント哲学をインプットにしているのかなぁと疑問があります。

 

永劫回帰

意味:この世界は、すべてのものにおいて、全く同じことが永遠に繰り返される

感想:「全く同じことが繰り返される」と言い切れる材料がないし、「繰り返していない」と言い切れる材料もない。キリスト教がダメ→ダメなキリスト教が説いている〇〇はダメ→反〇〇が正しい、というお粗末な話法。これと同じ構造の文章を最近ツイッターで見ました。

 

●超人

意味:キリスト教が救済したい弱者等によく見られる恨みの感情「ルサンチマン」を克服した者。及び、絶対的真理を廃し、次々と生まれ出る真理の中で、それと戯れ遊ぶ人間。

感想:私は社会的地位が低いので、社会的立場が高い人に対する期待は大きいです。期待よりも低いパフォーマンスしているとイラっとします。イラっとの具体的な内容は「その立場にいて仕事の質が低いと船(みんな)丸ごと沈むぞ?やばいぞ」という焦燥ですね。これも一種のルサンチマンでしょうか。ネガティブな感情を克服することや、理を極めることを目指すのはいいんじゃないでしょうか。私がやってることは超人を目指すこととかなり一致しています。ただ、人間全員が超人を目指すのは少し無理があると思います。あくまで1つのジャンルとして社会的理解があると嬉しいですね。

 

力への意志

意味:「意志」は個人の主体的な感情のみを指すのではなく、自然現象を含めたあらゆる物事の中で拮抗している。達成、野心、「生きている間に最も良い所へ昇りつめよう」とする努力、これらはすべて力への意志の表れである。強者は、凡庸な人間に自分を合わせたり、又、弱者を見て己の優越感を味わうのではなく、常に一層高次の生を求め己を推し進めるべきだ。弱者は、ルサンチマンに囚われることなく、常に強者が示す高次の生き方に憧れ、己がそのようにできないとしても、尚、それを望むべきである。(この論はナチズムに利用されるに当たり、歪曲済みのもの、との説がある)

感想:強くなろう、はいいことだと私は思います。人という字は支え合っていますが、支える側と支えられる側のバランスがある水準を下回ると全滅ですから、個々人の能力のベースアップが有効だという普通の話です。キリスト教の「弱者でもいいんだ」に反発して、ちょっと強いトーンで「強くなろう」とぶちかましてると思いますが、その大げさ感を差し引けば、言ってることは同意します。ただ、強者はこうあるべき、弱者はこうあるべきというのはちょっと不自由ですね。私が強者&弱者(つまり全員)に求めるのは、「船(全体)が沈まないように社会のトータルで辻褄合うように努力してほしい」ですね。それがクリアできたら、あとは何したっていいです、好きにやってください。

 

(まとめ)

ニーチェは、哲学者というよりも、「人生とガンガン闘った人」の印象です。強い主張ですが、サンプルとしてはあまり使えないです。もっと変な形状をしていて、理を通していたら、貴重な模型になったと思います。強い人もいれば弱い人もいる、同じ人でも強さや弱さがある。人間は70億人もいるし、70億人しかいない。そういう点で、「変な形の人」の模型が価値を持つと思います。

 

 

中国の反応

中国外務省の報道官の会見(8/5)で「岸田総理はペロシ議長との会談で非常に良くない発言をしました(和訳:ANNnews)」という発言を動画で見ました。又、王毅外相の言動も併せて見ました。

 

この反応(言葉選び、振る舞い)から読み取れる情報は以下です。

 

・中国は、「日本との武力衝突コース」でも、「軍事行為を伴わない静かな侵略コース」でもどちらでも対応可能なカードを用意していて、どっちでも良い。

・中国が気にしているのは、国際社会での立場が揺らぐこと(ロシアのように悪役になること)と、国内からの反発を招くこと。

 

<上記の情報を受けての対応>

中国は、台湾侵攻(台湾合併)に関して、日本に対してほとんど脅威を感じていないようです。「眼中にない」という表現が最も適切でしょう。これは日本国にとっては悔しいかもしれませんが、その感情は使えないのでひとまず置いておいて、この状況をチャンスだと捉えた方が生産的です。眼中にないということは、それだけ行動の自由度が高いということです。つまり、この自由度を最大限活かした戦略を取るべきです。

 

ここからは私の嗜好が入った意見ですが、アメリカに対して内緒話で次のような表明をするべきだと思います。「民主主義の火なんて長期的に見ればいつでもどこでも点けられるから台湾の現状維持にこだわるのは合理的ではない。日本が最も恐れているのは米中戦争勃発である。東アジアの平和と安定に最も寄与することは、中国政権の安定化を促す行動であり、日本としては日米同盟と齟齬が生じる場合であっても中国の安定を優先したい。又、国際社会において中国を孤立させるような操作は、中国を強硬な態度に推し進める作用があり、コストとリターンが全く見合っていない。中国を過度に褒めたたえる必要はないが、国際社会において、中国は経済面・安全保障面における東アジアのリーディング国であることを認め、それを公に明らかにするべきだと思う」

 

こんな感じで、中国を安定化させ、中国の対日本政策を「軍事行為を伴わない静かな侵略コース」に固定することが重要だと考えます。

 

これができたら1歩進むことになって、次に「静かな侵略」に対してどのような対応を取るべきか、を考え決めるのが良いと思います。

 

アメリカもアメリカで、政策を自由にコロコロ変えられる状況ではないので(世論の勢いに振り回されがち)、アメリカの政府に直接「ガン!」と言うことが、現状においてはとても価値を持つ行動になります。

 

私は日本は中国に吸収されればいい、というちょっと極端な考えを持っていますが、上記は日本生き残りコースへの渡しが可能なシナリオなので安心ですよ。

 

今は、針の穴に糸を通すコントロールをしないと、大けがする局面です。

 

 

未熟なペットと飼い主

人間の管理について、「未熟のまま」色々な道に進ませる、というやり方は、私は気に入っていません。

 

自分事だと、未熟なままだと上手くいかないことは確定するし(やる前から失敗することがわかって興ざめするし)、その他方、自分の成長によってできないことができるようになると、楽しいからです。

 

多数の人間集団については、トータルの収益性を上げないと、やはり失敗が確定します。その目標に対して、もっとも素直で、王道と言えるのがひとりひとり個人の成長を促す、という手段です。

 

地球で生きてる以上、どのように夢のフィクション世界を妄想しても、1人当たり平均の収益性を及第点にまで押し上げなければいけない、という縛りからは逃れられません。よって、「人を奴隷のようにこき使い、”努力が報われない人”を大量に作り出す」ことにより、いわゆる「共食い・ゼロサムゲーム」によってしのごうという人間が生まれます。

 

全ての構成員が「共食い」を始めると、その組織は縮小を続け、最終的に組織の体を成さなくなります。よって、「高い売上を立てられる個人」がメンバーになって、指揮を取り、個々人の収益性を上げていく、という別付け装置が必要になります。

 

この別付け装置が機能していれば、「共食い領域を持つ、安定した人間社会の実現」が可能になりますが、今の日本を見ているとエリート層に該当する人たちが、なぜか一緒に共食いに参加している状況です。

 

その理由は何か、というと、そうしないと左遷されたりクビにされたり嫌がらせをされたりするからですね。

 

で、それを指示している「何か」は、「共食い領域を持つ、安定した人間社会」を提供する能力はあるんでしょうか?

 

基本的に、「よく正体がわからない相手」とは取引しない方が良いと思います。どんなに魅力的な条件を提示してきても、相手がどんなに強そうでも、です。

 

人間を「未熟なまま」集団で走らせるのは、ペットに首輪を付けるのと似ています。飼い主の想定を超えて遠くに走り去られると困るからです。

 

そういうカラクリがわかっている以上、私がおすすめするのは、「飼い主-ペット」の関係を見直すことです。共食いコースは活路がありません。

 

エリート層に共食いコースを勧めている飼い主は、ペットを殺そうとしています。殺されないようにするためには、ペットではなく、野生の動物として生きることです。

 

飼い主もまた、万能ではありません。飼い主が私たちに遠くに走り去ってほしくないのなら、私たちが自主的に行動範囲を狭くすればいいことです。それは不自由で嫌ですが、とりあえず生き残れるのでOKです。

 

「人間社会は共食い世界を包括する」は許容できますが、丸ごと共食いに走って死ぬのは勘弁です。その辺の線引きは、度々命がけになりますが、そこで命を張らないと生きてる意味が揺らぎます。

 

ちなみに、この日記は、あらゆる方向(全方位)に向けて書いています。