幸福について考えてみた

私は「楽しい」という感情に対する感度がすごく低いです。

 

今も普段過ごしていて楽しいと思う事は多分あるんだろうけど、それに気づかないというか、「あ、そうなの」みたいなそっけない感じになってしまいます。

 

楽しい感情に興味が向かないのは「一過性」だというのが主な理由だと思ってるんですが、もしかしたら脳の障害と言ってもいいかもしれません。

 

「楽しい」が無い代わりに、私には好奇心という幸福システムが備わっています。

 

脳は欠けてる部分を他で補う機能がある(視覚障害者の方の聴力が発達するように)らしいので、「楽しい」が欠けてることを「好奇心」で補っているのだと思います。

 

私にとって、この世で一番価値のあるものは愛でも金でもなく、「情報」です。

 

特に気に入ってるのが、「持っている複数の情報を組み合わせて全く新しい情報を生み出すことができる」ところです。

 

まさに金の成る木のようで、10代半ば~20代前半までこれにのめり込みました。

 

本を読むなどして得られる情報というのもありますが、

 

・その情報は専門の研究職の人にしか真価がわからない(=私が使いこなせない)

・大勢の他人がすでにやっていることなので彼らに任せればラク

 

という理由で、私は「自分だけにしか持ちえない情報」を探し求める道を選びました。

 

その一大テーマに「世界は有限か、それとも無限か?」というのがあります。

 

この情報を手に入れるために、脳が若かった10代後半~20代前半の時期に、寿命を削る思いで猛烈に思考をめぐらせました。

 

その結果、「世界は有限である」という結論を得て、私の人生の目的は8割果たせたと思っています。

 

そんなに重要なことか?と思われそうですが、有限だと、私が、自分と今生きている世界の在り様にとても納得する(心理的に受け入れる)ことができるのです。

 

これが無限だとすると大変なことです。自分の存在の根拠が大きく揺らぎます。

 

そもそも無限と有限は同居することはできないと思っています。

「自分が在る(そして自分以外が在る)」と認識するシステムがこの世界の根幹ですが、この仕組みがあること自体が、世界が有限であることの根拠になっています。

 

※この根拠は今考えた後付けの根拠です。過去にどのような根拠で「有限である」と結論づけたかは覚えていません。論理以外の方法を取りました。

 

無限の「世界」というのもおかしな表現で、無限においては「存在すること」が不可能な「はず」です。

 

無限なのに、今私は自分や世界を在ると思ってしまっている。これは「あってはならない謎」です。考えても答えが出ない、お手上げ状態でポツンと立ち尽くす以外に取る行動がありません。

 

つまり、私は世界が無限だと非常に困るというワケです。

(ただし、もし無限であることと世界が存在することの整合性を、誰かから突き付けられたら、目を丸くして喜ぶと思いますが)

 

話を戻すと、私にとって重要な情報は、闇の中に灯る松明のようなものです。

同時に、高価な宝石のような、大事な宝物です。

 

「世界は有限である」という灯りは、私の心(脳)を広範囲に照らしてくれています。

 

今は、もう十分明るいので、「これ以上はいいや」状態で好奇心も下火になっています。

 

いつ死んでも後悔しない状況ができてるという意味では、私は幸せなのかもしれません。

 

しかし楽しいが無いというのは「他の人と比較した場合」、明らかに不幸です。

 

今は「楽しい」を開拓する道を呑気にテクテク歩いているところです。

上手くいくのかどうか、少し不安ではありますが。