コミュニケーション能力について考えてみた

はっきり言って、私はコミュニケーションが不得意です。

 

その原因を考えると、一番は自分の気持ちにちゃんと向き合っていないという点があると思いました。

 

良いコミュニケーションが取れている状態では、「今のムカつくな~」などの負の感情もお互い上手に伝えあっている形なんだろうなと思います。

 

私は負の感情に耐える力が弱く、心に沸いた嫌な気持ちに蓋をしてしまいがちで、結局良い感情も感じない状態なんだと思います。

 

傷つきたくない守りの姿勢でがっちり硬めすぎて、より良いものを得ようという意欲がないと、幸せが離れていくのは当然ですね。

 

人に対して「こうして欲しい」と働きかけるのも苦手です。

 

コミュニケーション能力とは、自分の幸せを追求するために、相手に対しておこなうあらゆる働きかけの技術のことを言うのだと思います。

 

一方で、物質世界のメカニズムを分析して、その世界を変えるように働きかけることには興味があり得意でもあります。

 

例えば仕事のミスがなくなるようにするにはどう行動すればよいのか、などの課題に取り組むようなことです。

 

起こっている現象には常に必然性があって、その内部のからくりを知って操作すれば、世界を変えることができ、それはとても楽しいことです。

 

これと同じことが対人関係でも起こせると思うのですが、コミュニケーションの基礎である「自分の感情」をよく知らないとできないので今の私には難しいことです。

 

今まで楽しいという感情がなくても、好奇心を満たせれば十分な満足を得られてきたので、ある意味特殊な進化(環境適応)を果たしてしまっている状態ですが、現在結婚もしていませんし、このままだと絶滅路線だな~と思います。

 

まずは楽しいことをたくさん体験して、その良い感情をよく知ること。

そして悪い感情もふたをしないで向き合うこと。

 

これらを今の課題として生きていこうと思います。

相手への働きかけについては、その基礎ができてから考えるとしよう。

ダウン症について考えてみた

headlines.yahoo.co.jp

この記事に関して考えたこと・・・

 (記事の要約)

ダウン症とは、生まれつき染色体に異常があることで起きる。

多くの場合、知的な発達に遅れがあって、ゆっくりと成長する。

 

ダウン症のある人(12歳以上の852人)へのアンケートの結果、

「毎日幸せに思う」「仕事をしていて満足がある」がそれぞれ約90%となった。

仕事も趣味も充実している、健常者とほとんど変わらない生活をしている人もいる。

 

しかし、妊婦の血液から胎児の染色体を調べることが可能になったことで、ダウン症のある子供を中絶するケースが多く存在する。

この検査の際におこなわれるカウンセリングで、上記のアンケート結果などが十分に伝わっていない、との指摘がある。

 

人間、誰しも染色体や遺伝子レベルでは、完璧ではなく、何か欠けていることがわかっている。ダウン症も個性のひとつとして認める社会を目指すのが好ましい。

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ダウン症について

私はダウン症の人と接したことはなく、ほとんど知識はなかったですが、ダウン症かな?という人は駅のホームなどで見かけたことはあります。

 

その時の印象から、大人になっても会話がままならないと思い込んでいたのですが、この記事を読んで「ゆっくりと成長」し、仕事もできるのだと初めて知りました。

 

「得体の知れないものだから」と遠ざけてしまうと無用な差別を呼び起し、社会悪に発展する危険性があるので気をつけたいと思いました。

 

■障害のある子供の中絶について

中絶と聞くと、まず進化論が頭に浮かびます。

進化論とは「生物の遺伝子は変化していて、環境に適応した変化をした結果、よりよく生き残っている遺伝子が優れている」というものだったはず。

 

遺伝子の優劣を決めるジャッジは自然界が担っているものですが、中絶は、人間がそこに「健康な子供の方が好ましい」という恣意的な影響を強く与えているようで、直感的に「生物の一選手である人間がそこに手を出していいのか?」と心配になります。

 

一言でいうと「アンフェア」じゃないか?と思ってしまうのです。

 

ひな鳥が親から餌をもらう競争をして、負けたひな鳥が餓死してしまう・・・

これはフェアな競争ですが、

この時親鳥が「この子は体が小さいから餌をあげないでおこう」と意図的に切り捨てを行ったとしたら、一体どうなるのか?

 

体の大きな恐竜が絶滅して、体の小さなネズミが生き残った前例に照らすと、

この進化の操作は「リスクがある」という評価になりますが、

 

生物種の栄枯盛衰を考慮した投資というもの自体が、スケールが大きすぎて私のような個人にそれを受け入れるだけの容量がないという問題があります。

 

現在の気持ちを吐露すると「人間が絶滅しても構わない」になります。

 

これを踏まえて、話をダウン症に戻すと、

中絶もアリだし、産んで育むのもアリ・・・私個人としてはそれぞれ親がよく考えて出した結論ならばそれが一番良いということになります。

 

人間の繁栄を願う立場ならば、「ダウン症が劣っているから」という理由での中絶はしない方が良いでしょう。

 

ダウン症でも生きがいを見つけて、健常者と同じように生をまっとうできる環境が今すでに作られているようなので、なおさら(前記の理由での)中絶は悪手と言えます。

 

ダウン症も個性

私もけっこう(良い意味でも悪い意味でも)個性的だと思うんですが、個性を認めるって言葉がピンと来ないです。

 

多分、「みな同じ」だという前提に立っていないからだと思います。

「自分と同じだ!」と思える人に会ったことがないのですが、もしそういう人と出会えたなら色々楽しい話ができるだろうな、とは思います。

 

ダウン症の人も、「ダウン症」で括られるのは嫌なんじゃないでしょうか。

きっと一人一人違う人間、もし出会ったら先入観を捨てて接してみようと思います。

 

 

 

 

電通社員自殺について再び考えてみた

 

この記事に関して考えたこと・・・

私は「死ぬくらいなら逃げれば(辞めれば)よかった」と考えていた人間なので、「おやっ」と思い再び考えてみました。

 

著者は産業カウンセラーの方、記事を読んでの要点をまとめると、

鬱状態が自覚できない場合、退職などの重大な決断は不可能

・自殺した本人の責任を問うのは危険

・辞めたとしても、再就職の道は簡単ではない。

 

1番目と3番目は一般的な事実としてそうかもしれないですが、

2番目がひっかかります。

 

「自殺の責任」とは一言で言えるけど、かなり複雑な問題だと思う。

自殺することによる影響を挙げると、

・本人の幸福への影響

・家族や恋人・友人などの幸福への影響

・会社への影響

これらのうち、自殺によって何らかの被害があったならば

それぞれの影響ごとに分けて「責任」が発生するのだと思う。

 

このうち私が一番に問題にするのは「本人の幸福」で、「死ぬ前に辞めればよかった」とはこの責任に触れるものです。

 

自殺された高橋まつりさんを救うことができなかった家族・友人は悲しんでいると思いますが、彼らには「彼ら自分自身の幸福」が損なわれたことに対する責任があると思います。

 

会社には、新入社員の人生を潰した罪と、人的資産を有効に活用できず業務に支障をきたしたことに対する責任があります。

会社には社員を幸福にする責任はないですが、潰すことがあってはいけないでしょう。

 

これらの責任を一括で扱うのは無理があります。

すべてを会社のせいにするのは酷です。電通にも非がありますが、電通は自分の守備範囲に存在する非について改善活動など行って責任を果たせばよいのです。

 

基本的に、私は自分の幸福についてはその人の責任だと思っています。

今回のケースは「自殺」です。

自殺とは幸福、不幸の基準ごと失わせる特殊なケースのため、

そもそも「高橋まつりさんは自殺によって不幸になったと言えるのか?」という問題がありますが、おそらく「不幸」だったのだろうという前提で考えています。

 

鬱を自覚できない、ということは自分の不幸を認めないということです。

「不幸じゃないはずなのにこんなに苦しい、人生って辛いものなんだ」

と思いこみ、絶望したのでしょうか。

 

この辺の推察は結論がでない(本人に聞かないとわからない)ため、なんとも言えないですが

 

このどうしようもない辛さから逃げる「準備」はできたと思います。

会社に入る前は、鬱でなく健康な精神状態だったはず。

「もしどうしようもなく辛くなったら、会社を辞めよう」とあらかじめ頭にインプットしておくリスクヘッジ策は取れたと思います。

 

ここで最初に紹介した産業カウンセラーの方に言いたいのは、

私は、高橋まつりさん自身が不幸になったことに対して、彼女を責めているわけではないということです。

 

「ああ、彼女は幸福になることを失敗したんだろうな」

 

という感想を持っているということ。

高橋まつりさんは東大卒ということなので、「自分の手の負えない危険が迫ったときに逃げる」という基本的な戦術は当然、身に付けているだろうという頭だったので

 

「なぜ逃げなかったのだろう?」という疑問が湧いた結果の「死ぬ前に辞めればよかったのに」なのです。

 

戦争の現場でも、勇敢な人ほど死にやすいと言います。

産業カウンセラーの人は「結果だけ見た空しいロジックだ」と書いていますが、

この自殺という結果から導き出される有用なロジックを、頭の良い子・悪い子の区別なく、教育の場でインプットして欲しい(個人個人が自ら幸福になることに成功して欲しい)という願いを私は持っています。

 

産業カウンセラーの人は精神病患者との対話によって問題解決する責務を負っている職業だと思いますが、

「死ぬ前に辞めればよかった」と言っている大勢の人たちはその視点に立っていないのだろうと推測します。