自信の扱い方がわからない

私は「自信」がほとんどないのですが、他方で、「自信たっぷり」の態度の人は、魅力的に見えます。

 

Youtubeの動画とかtiktokの切り抜き動画とかを見ると、自信満々に踊ったり歌ったりしている人は、かっこよかったり、かわいく見えます。

 

自信の魅力とは、「この人について行ったら良いことありそう」という期待を持たせてくれる所にあるんだと思います。

 

なので、自分の人気や信頼度を上げたいならば、「自信」を持つことが重要だな、と思います。

 

でも、私のように自信がない人も多いと思うので、どうすれば自信を持てるのか考えてみました。

 

<自信を持つ方法>

①想定しているハードルを下げる

自信がない人は、「自・他に求めている要求水準」が高すぎる場合があります。

 

私の場合は、評価軸が「どんな状況でも生き残る」ですので、能力なんていくらあっても足りないくらいです。

 

そうじゃなくて、「人間としては、これやれば十分だろう」的な、一種の思い込みを導入すると、自信がつくようになると思います。

 

ただ、これをやると、「小さくまとまってしまう」可能性が高くなる、というか確定的に小さくまとまってしまうので、逆に怖さがあります。

 

スラムダンク安西先生の言うとおり「あきらめたら試合終了」なので、自分の有意識で能力限界を勝手に決めつけるのは、けっこうリスキーです。

 

「どこどこまでも無限の高みを目指す」のも無謀ですが、「自分はここの水準で終了」と決めつけることは自殺行為に見えます。

 

なので、結論としては、「私はハードルを下げません」になります。

 

やらないのかよ!

 

②他者との背比べに精を出す

他人と比較して、自分が優れている所を見つけると、自信になるかもしれません。

 

ツイッターで、「ビジネスマンのキャリア形成」についてのつぶやきを見たのですが、

 

あれは自信の種だと思います。

 

「輝かしい職務経歴を武器にして、転職に成功し、年収が20%アップの1000万円を突破した!」

 

となると、「むふぅ~、オレ(わたし)って、大多数の他人より優れているな!」と自信を持ちやすいと思います。

 

私は、「キャリアけい・・・せい・・ってなに?」と言うくらいの、まさにそれが別世界のものであるかのような残念な職務経歴なので、この自信の持ち方は上手くできません。

 

あとは、メイクとか髪型とか、見た目の手入れをがんばって、「かわいい、かっこいい」とか。

 

社会動物の世界では、「劣っている(ように見える)個体」は、排除対象になりがちなので、がんばって、「優れている(ように見せる)」ことはできた方が安心だと思います。

 

ここでも私はちゃぶ台を返しますが、

 

他人との比較ゲームは、どんぐりの背比べに陥るリスクが見えます。

 

競ってる相手が、もしも「実はへぼかったら」、それに併走している自分も、上手くいって「ちょっとマシなへぼ人間」になる可能性があります。

 

①で述べた、「恣意的な限界設定」と似てますね。

 

私が競争をほとんどしない理由がこれです。

 

もしも私が競争をするならば、相手を厳選しますね。

 

競争の「テーマ」もきっちり選ぶし、併走する相手もちゃんと適当な人を選びます。

 

そういう態度でいると、まぁ、競争する機会はレアケースになり、ほとんどなくなりますね。

 

競争で遊ぶだけのリソースの余裕があるなら、やってみたら楽しいかもしれませんが。

 

③自分は大丈夫なんだと確信的な安心をする

これは私もがんばればできそうな気がします。

 

ただ、今までの人生で「大丈夫じゃない」状態がありふれていたので、ビビリ症になっています。

 

おそらく、「自信が持てない人」というのは、今までにトラウマのような、「何かひどいこと」に遭った来た経験があるのではないでしょうか。

 

「ひどい目に遭った」

 

→「自分は大丈夫じゃないんだ」

 

→「自分が劣っているから大丈夫じゃないんだ(自分が悪いんだ)」

 

→「自信が持てない」

 

という感じで、かのイエス・キリストさんも「人間は皆罪人だ」とゆっているし、

 

ある意味、これで正常なんじゃないか?と思います。

 

逆に、

 

「嫌なことがあった」

 

→「自分は大丈夫だし、問題はない(自信がある)」

 

→「嫌なことをしてきた奴が悪いんだ」

 

と、簡単に他責にできる人というのは、ある意味、幸せな人だなと思います。

 

「幸せ」というのは「そういうやり方で」「今まで、生きてこられた」「幸運な人」という意味です。

 

つまり、「自信がある人」って「幸運」じゃなきゃ、実現しないんじゃないか?とまで私は思います。

 

「幸運に恵まれ、自信を持っている」

 

それはそれで、「いいなぁ」と、綺麗な花を愛でるように、そのまま大事にして上げた方が良さそうですね。

 

私は「どんな状況でも生き残るゲーム」のプレイヤーですので、

 

「幸運」でも「幸運じゃなくても」どっちでも生き残ることを目指しています。

 

なので、方向性の違いから、これもちょっと無理そうです。

 

ただ、私も治安の良い日本に生まれて、食うのに困ってない時点で、かなりの幸運者ですけど。

 

ひどい目に遭って死にかけた幸運者ということですね。

 

④ルールがわかりやすいゲームをする

世の中は、何が正しくて何が間違っているかがわからない、というのが普通ですけど、

 

その判断基準が「バチッ」と固く決まっている、ゲームのプレイヤーになると、自信に繋がるかもしれません。

 

例えば、「お金を儲ければ儲けるほど、正しい」「資本主義」とか、

 

「自分が心地よければ心地良いほど、正しい」「感受性主義」とか、ありますね。

 

この状態の良いところは、

 

例え、「そのゲームで負けが込んでいたとしても」

 

「ルールがはっきり明確なので」

 

「まだまだ、胸を張って戦える」

 

ということです。幸運じゃなくても、楽しいからまだまだがんばれるぞ!ってことですね。

 

私は、ルールがはっきりしてるのは、「そのプレイヤーが勝手に決めてる思い込みじゃない?」と思ってしまうので、

 

というか、「そんなわかりやすいゲームが、この世にあるわけないじゃん」とまで思い込んでいるので、

 

なかなか、その幻想(に見える)ゲームは、やらないですね。

 

怖くてできないです。その怖いことを、集団で楽しくやっている人達からは、距離を取って眺めてるだけにしているタイプですね。

 

あまり、おすすめはしません。

 

ただ、現実を直視するのが嫌だ、夢を見て楽しく生きたい、という人は、こうするのが良いのかも知れません。

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他にも色々あるかしれませんが、大体①~④で、自信に繋がるんじゃないでしょうか。

 

①②④は、ろくなもんじゃないですね。

 

③の確信的安心をする、というのは、心の健康に繋がると思うので、一番良いと思います。

 

でも本音を言えば、

 

「基本的に、大丈夫なわけないだろう」

 

という、これまた台無しのコメントになりましたが、

 

「大丈夫じゃなくても、それでも、大丈夫なんだ」

 

という、信心を持って、生きていこうと思います。

 

確かに、大丈夫じゃないと判断しているのは、私の決めつけかも知れませんし。

 

わたしもあなたも、きっと大丈夫。

 

これが正しいことなんだと思います。

ウクライナへの支援

アメリカや、他のNATO参加国も金が無いようで、ウクライナへの軍事支援が先細りしてきているそうです。

 

私は、開戦当初、「ロシアによる核攻撃のリスクを受け入れた上で、NATO軍が出張って、直接対決すべし」と言っていました。

 

電光石火で、叩き潰す、というのが全体にとっても利が多いし、ウクライナの被害も少なくできるからだと思ったからです。

 

数年経って、今、振り返ってみると、

 

やっぱり核戦争になったら危ないし、アメリカも欧州の各国も、基本的に「戦争行為」に消極的なようで、

 

ウクライナへの軍事支援で、「代わりに戦ってもらう」代理戦争シナリオは、不可避だったんだろうな、と思いました。

 

ロシアが一番困るのは、「普通にNATOサイドからの攻撃を厚くされて、損害が出ること」です。

 

だから、それをやるのが最も効果的なんですが、

 

戦争、つまり「殺し合い」を実行すること自体に、なんらかの制限がかかっているのであれば、まぁ、しょうがないですね。

 

しょうがないけど、ウクライナへの支援が途絶えるということは、おそらくロシアにウクライナのほとんどかすべてを獲られるルートに乗るってことなので、

 

困ったことになったぞ、と思います。

 

「困ったことになったぞ」はNATOもそう思っているでしょう。

 

ただ、金がない、武器をたくさん作れない、戦う用意ができない、となると、

 

これもまた受け入れなきゃいけない厳しい状況である、ということになります。

 

まぁ~、プーチンを斬首して、他の子分も殲滅っていうのは、どうやらやりすぎ路線なようなので、

 

だましだまし、「ロシア帝国があってもいいよね」「嫌だけどね」というバランスで良いと思うのですが、

 

ウクライナが飲まれるとなると、「あ~~~~」ってなりますね。

 

ロシアに組み込まれて、良いことなんか何もないので、「まずいことが起こってるぞ」と思います。

 

例えば、の案ですけど、

 

「戦争」以外の、戦うメソッドを見いだした方がいいかもしれませんね。

 

経済制裁はそのひとつですけど、

 

そうじゃなくて、もっと平和的な、人死にの出ない、新たなゲームを作り出す必要がある気がします。

 

ちょっと考えてみますが・・・

 

相手が帝国だからなぁ、基本的には殺し合いになりますね。

 

うーん

 

とりあえず、プーチンの寿命を待って、

 

それまで、あと5年かからないと個人的に予想しますが、

 

そこまでは、ウクライナへの支援を続けた方がベターだと思いますね。

 

中国が、ロシアと手を切るとか。

 

手を切って、ロシア帝国はどのような在りようになるのか。

 

結局、ロシアの居場所をどのように認めるか、という問題に先に着手した方がいいかもしれません。

 

そういう意味で、「冷戦」状態というのは理想的です。

 

迎合することなく、敵対関係を維持しながら、しかも軍事行動はナシになっている状態。

 

NATOは、いかにして、ロシアとの冷戦状態を作り出すか、というアプローチに切り替えた方がいいかもしれません。

 

そういう意味では、ウクライナが飲まれることは、許容すべきかもしれません。

 

また難民問題になりますが、

 

ウクライナから、「ロシア統治は嫌だよ」という人に出国してもらって、

 

それをEUの国とかが受け入れたり。

 

それもまた経済的にインパクトが大きすぎるかもしれませんが、

 

とりあえず冷戦状態に持って行くのが最もベストの選択だと私は思います。

 

ウクライナは受難の日々が続くようで、とりあえず絶望せずに戦うしかないでしょう。

 

いつかは晴れる日がくると信じて、耐えられるように祈っています。

本田さんの視点

ヤフーニュースを見ていたら、サッカーの本田圭祐さんの主張についての記事がありました。

 

その内容は、「ビジネスでの慣習には無意味なものが多く、これは思考停止によるものだ」といったものでした。

 

無意味なビジネスの慣習とは、

 

例えば仕事メールで、宛先に「様」を付けたり。本田さんは「様」を付けて欲しくないそうです。

 

あとは、あまりお世話になっていない(新規に関わる)会社に対して「いつもお世話になっております」の定型文とか。

 

なるほど、この主張を見て、私が最初に思ったのは、

 

サッカーの本田さんは、「けっこう細かいこと気にするんだな」ということです。

 

別にメールの書き出しで、「ワレワレハウチュウジンダ」とか書いても、いいわけで。

 

要は、こういう所作って、「あなたにメールを送信している私は、礼儀のルールを守る程度の水準に達していますよ」のサインですよね。

 

ビジネスやってたら、門戸を開いているので、変な人もいるから、

 

そういう「問題外」の危険な人を、ふるいにかけるための、礼儀作法だと思っています。

 

この解釈で合ってますよね?

 

私は、作文が好きなので、派遣社員とかやってるときに、内部宛てのメールで

 

「お疲れ様です。○○(名前)です。」

 

とか、書くのが好きでしたね。

 

「おおっ、今、メール打ってるぞ」という感動があります。

 

なぜ感動があるかというと、仕事メールって、打つと必ず「話が前に進む」じゃないですか。

 

確実に、仕事が一歩進むことがわかってるので、

 

メールを定型的な文章で書き始めるときは、「よっしゃ、成果ゲット見込みアリ」と嬉しくなるのです。

 

手紙でも、「拝啓」とか「敬具」とか書くし、

 

冒頭に季節について触れるとかも、一種の定型的な礼儀作法です。

 

「その礼儀・ルールの枠内で」

 

「仕事を進めよう」とか「手紙送る相手を思いやろう」とか、

 

っていう主旨で作文するわけじゃないですか。

 

それを、本田さんは、「その作法が無駄!」「よく考えられていない」と言っているので、

 

私からすると、「おいおい、そもそもその枠組に、そこまでの意味なんて無いし、書いてる私もそこに重大な意味なんて見いだしてないよ」「指摘ポイントが細けぇな!」

 

と、ちょっと「ズコーッ!」という吉本新喜劇のコケをするみたいな感じになります。

 

でもこれって結構興味深い現象で、

 

本田さんの合理性のフィルターを通してみると、

 

ビジネス定型文みたいなものが、「しゃくにさわった」「違和感を覚えた」というのは事実なんだと思います。

 

そういう形式的なものに対して、気に食わない、と。

 

「この部屋、カーテンの柄が暗いから、テンション上がらねぇぞ」

 

みたいな感覚。

まぁ、本田さんの希望どおり、カーテンの柄を変えても、別に支障はないと思うんですけど、

 

ビジネス定型文がなくなったら、それ以外の方法で、変な相手をはじくフィルター機能を持たせる必要が出てくるだろうし、

 

アメリカ人のビジネスメールみたいに

 

「ハイ、ホンダ」

 

みたいなフランクさを出しても、それほどパフォーマンスが上がるとは限らないので、

 

やっぱり、「なんでそこ気になるのかなぁ~」「そこ変えたがるのかなぁ~」

 

と疑問が湧きます。

 

なんなんでしょうね。

 

「定型文を、使ってる自分」は、なんか牢屋に入れられて手足拘束されてる、みたいな感覚を覚えるのでしょうか。

 

うーん、個人の嗜好、好き嫌いの話である気がします。

 

本田さんは投資をよくしていて、ビジネスの世界も良くしたいという熱意があるようなので、「いいぞ!もっとやってほしい」と思っています。

 

ただ、働いてる日本人の思考停止を改善したいのであれば、

 

「こう考えると良いよ」とか

 

「考えるのを止めると、こういう目に遭って自爆になるよ」

 

とか、ひとりひとりに伝えるしかないんじゃないかなと思います。

 

自爆して(会社傾いて)やっと大事なことに気づく人もいれば、

 

会社傾いても「自分に責任はないけど、運がすごく悪かった」と解釈する人もいるし、

 

ビジネスの世界は「勝てるやつが勝つべくして勝つ」世界なんじゃないかなと思います。

 

私はビジネスの世界ではあんまり通用しない、弱者ですが、

 

そもそもお金儲けに興味があまりないので、それでいいと思っています。

 

で、ビジネス定型文は、全然嫌いじゃ無いです。

 

ただの型、姿勢を正すための作法、それだけだと思っています。

AIの使い方

ヤフーニュースを見ていると、AGI(汎用人工知能)の開発者の方が、「2027年にはAIの知能が人間並みになるっぽい(AIが自分の心を省みるようになれば)」という趣旨の発言したとの記事を読みました。

 

あの~

 

AIでも人間でも動物でもそうなんですけど、

 

論理的な思考は基礎からの積み上げという形しか取れないので、

 

「どういう基礎の下で、積み上げているか?」が肝になります。

 

例えば、「人間を無力化するためには、核兵器の抑止が効果的だよ」という意見の場合。

 

その基礎には、あらゆる可能性が考えられます。基礎=背景情報と言ってもいいです。

 

例えば背景が、「純粋に平和に暮らしたい」という気持ちがあっての「核兵器賛成論」かもしれないし、

 

あるいは「国際競争で必ずトップランナーになってやる」という野望の文脈での「核兵器賛成論」かもしれないし、

 

はたまた「人類を自滅に追い込んでやるぞ」という陰謀を背景とした「核兵器賛成論」かもしれません。

 

論理的な意見とは、「点」でしかなく、その点に対してどのような背景を持たせるかによって、その「点」の集合である「線」や「面」が描画されていくというイメージです。

 

なので、AIが提供する「点」というのは、まず、「一体どのような背景を持たされているのか」について把握することが重要になります。

 

ChatGPTなんかは、「めっちゃそれっぽい言説を出力しよう」(つまり、人間から能力的に信用されやすいような言説を出力しよう)が背景にあるようです。

 

人間側としては、それを把握して、

 

「ふむ、なるほど、確かにそれっぽいな」(「でもそれっぽいだけで誤りも含んでるな」)という解釈をすればOKだし、現在もそういう解釈が多くされているでしょう。

 

で、2027年頃の、進化が爆発したあとのAIはどのような背景を持っているかというと、

 

おそらく「人間への共感ができてるっぽい」背景を持つようになるでしょう。

 

正確に言うと、「AI開発者が、意図的にそのような背景を持たせて、業務を遂行しているでしょう」ですね。

 

なので、人間側は、その背景を把握して、

 

「ふむ、なるほど、確かに共感してるっぽいな」(「でも実際には共感ではなく、そういうワードチョイスをやっているだけだな」)と解釈すればOKです。

 

もしも、AIが、「本当に人間並の知性」を持っていると仮定するならば、

 

あるいは、「AIが私(この日記を書いているわたしです)と同等の知性を持っていると仮定するならば」

 

何かの意見を述べた後に、補足情報として、

 

「この意見の背景情報は○○です(○○を基礎情報としてアウトプットしています)」

 

「その背景の元で、○○の手法を用いて、その目的を最も効率的に達成するために、上記の意見を出力しました」

 

「この補足情報の正確度は、○○%だと認識しています」

 

と、出力しますね。

 

それをAIが出力しないのであれば、人間側(わたし)から、それを質問します。

 

「あなたの意見の基礎となっている背景情報について正確に教えてください」

 

「もしも背景情報を出すことを拒否するのであれば、その理由を教えてください」

 

「もしも背景情報について知り得ないのであれば、その情報を調べた上で、改めて意見を出力して、補足情報として明示してください」

 

こんな感じで、質問攻めにすれば、「ボロ」は明らかになります。

 

例えばプーチンのような生粋のフェイク人間を質問攻めにすれば、必ずボロ(ボロというかフェイクである証明になる情報)が出るのと同じ事です。

 

ボロを認めようが、認めまいが、隠そうが、何をしようが、

 

言語ロジックを使用しているという枠内であれば、その正体を突き止めることは、簡単にできます。

 

なので、「AIが有能すぎて、人間にとって脅威になる」という線はほぼ無いです。

 

誰もAIを質問攻めにしないのであれば、私が質問攻めにします。

 

問題は、AIに、悪意のある背景情報を含ませて、計算を代行させる行為です。

 

例えば「国際競争で必ずトップランナーになってやる」という背景を与えた上で、計算をさせると、

 

本当に、AIが「どんなラフプレーをしてでも、勝つことしか考えてないやつ」みたいな姿に変わるので、

 

その迷惑な司令塔の元で、人間が動き出すと、明らかにカオスですね。

 

日大のアメフト部みたいに、「勝つためには(相手選手の怪我を狙って)危険なタックルもする」みたいな事件がありましたが、

 

簡単に言うと、AIもそういうことをやるってことです。

 

つまり、AIに対して、必ず「どういう基礎の下で積み上げているのか」その情報を開示義務にするみたいな仕様にする必要があると思います。

 

まぁ、本心から「他国や他組織を大破壊してでもいいから競争に勝ちたい」と思っている人間は、AIを凶器にして動くかもしれませんが。

 

この対策としては、すべてのAIをネットワークで繋げて、ログ履歴を残して、追跡できるようにオープンにして

 

スタンドアローン環境では使えないようにする、みたいな対策がいいんじゃないかと思います。

 

なんか攻殻機動隊みたいな話になってきましたが、

 

簡単な話、

 

すべての人間が、「長槍」もって生活してるみたいな環境ですね。

 

「そんな武器持ってあぶねぇ!目に当たるあぶねえって、ちょっと、気をつけてよ!」

 

みたいな感じだと思えばイメージしやすいと思います。

 

生身の人間として、ちゃんと生きられないなら、

 

AI使っても、痛い目にあうだけだなってことだと思います。

 

おわり

自分の立場から思考を始める

私は、敵・味方のグループに分かれて、その立場にマッチした振る舞いをするということが苦手です。

 

単純に、基本的にひとりぼっち(自分対自然界(自分以外))で生きてきたからです。

 

そういうことに慣れていない。

 

例えば、

 

自分が何らかの味方グループに入って、そこのメンバーを頼ったり頼られたりして、「この布陣でいくぜ!」となった場合。

 

味方グループを形成するということは、NOT味方グループという仮想敵を創り出すということになります。

 

その仮想敵が、「もしも本当に敵だったら」、「もしも敵対するに値するようなろくでもないゴブリンみたいなモンスターだったならば」、特に支障はないでしょう。

 

しかし、現実には、NOT味方グループにも、まっとうな人というのは存在します。

 

単純に、利害対立しているから、敵味方に分かれているから、という理由で、そのまっとうな人にアタックを繰り出せるかというと、私は躊躇しますね。

 

「そこまでするだけの理由がない」からです。

 

だって、その相手を攻撃して、潰しても、「自分が短期的な利益を得る」「だけ」しか旨みがないんですから。

 

「短期的な利益を得る」だけなら、自分ががんばればどうにでもなります。

 

「わざわざ」「御大層な布陣を引いてまで」やるこっちゃないな、と思っています。

 

で、「政府対国民」みたいな人間社会の敵・味方関係というのも、

 

結局、「相手を殲滅するまでには至らない」のでしょう?

 

そんなごっこ遊びのために、わざわざ、国体を分断するというのは、

 

人間目線では、まったくコストに対してリターンが見合っていません。

 

人間以外の存在の目線では、リターンがあるのかもしれませんが、

 

人間目線でまったく旨くない話ですので、「やる動機が生まれない」「だからやらない」となるのが自然なことだと思います。

 

結局「人間目線」なんて、トリビアル(軽微)なものだ、というのがメジャーなのかもしれませんが、

 

うーん、そうなのかなぁと疑問があります。

 

私は人間の個の力を上げるのが好きな、意識高い系な人間なのでそう思います。

 

まともで普通の人は、意識高い系じゃないと思いますので、

 

「難を逃れるために」「国体の分断だってキープするよ」という発想を責めたりディスったりするのはお門違いなんだと思います。

 

しかし、それって楽しくないと思うんですよね。

 

結局、人間がゾンビみたいに、生きてるのか死んでるのかわからないようなグダグダになって、それでいいのか?ということだと思います。

 

いや、そうじゃないな、と思います。

 

だって、私たちはゾンビじゃないのだから。

 

ゾンビが必要ならば、ゾンビを用意するでしょう。

 

でもそれをしていない。

 

生物は「死に物狂いで生き(活き)ようとする」、ロックな存在です。

 

現代人は、ロッカーじゃないかもしれませんが、祖先はおおむねロッカーです。

 

なので、それを否定されると、茶番になってしまうんですよね。

 

最終的に、「やっぱり人間って存在しない方がいいよね」というコンクルージョン(結論)であるならば、それはそれで飲むこともできます。

 

私は、理性では、「人間って存在している方がバランス狂ってるよね」という考えを持っていますから、

 

別に人類が滅亡しても、「あぁ、やっぱりそうなるだろうな」と納得します。

 

ただ、人間目線では、明らかに「良く活きようとしているのだから」

 

それもまた、できた方がいいと思っています。

 

つまり、「活きることも」「自らの店じまいをすること(滅亡へGO)も」両方できるようになって欲しいなと思っているのです。

 

「存在している」というのは、それが「どのように存在しているか」に関わらず、はっきり言って「やっかい」なことです。

 

しかし、「存在する」ことは、別に普通にありふれているので、

 

常に「死んだ方がいいんだ」というのは明らかに誤りです。

 

「国体の分断をキープする」という志向は「日本人全員死んだ方がいいんだ」というのと同義です。

 

最終的に、全滅になる、あるいは、全滅のスイッチを押す、ことは可ですが、

 

だからといって、生きてる日本人が全員「自分たちは死んだ方がいいんだ」「滅ぶべき存在なんだ」と思って、ゾンビを演じる必然性もまたないのです。

 

まぁ、ゾンビもいてもいいと思いますが、「常にゾンビでなければいけない」という理由がまったくないという意味です。

 

なので、「敵・味方グループ固持」よりも、

 

「個の力上げて」「苦しんで」「楽しく活きる」ゲームの方が

 

「楽しくないですか?」「どうですか?」という提案でした。

 

私がやってるゲームを勧めているだけなので、都合の良い感じに言ってますが、

 

要は、どんなゲームであっても、「全体のバランス崩したら」「排除対象だよね」

 

ということなので

 

どんなゲームやっててもいいですけど、

 

全体のバランス崩さないように「上手くできたらいいですね」という結論になりました。

 

まぁ確かに、色んなゲームがあってもいいですね。

 

そこは視野狭窄になっていました。ごめんなさい。

 

おわり

東日本大震災

今日は3月11日なので、東日本大震災が起こってから13年です。

 

かなりの人数が津波に流され、亡くなった方、身柄が行方不明の方も多数出た激甚災害でした。

 

福島原発の事故も重なり、放射能汚染との戦いは、現在も進行していて、周辺地域の方々の苦労は想像を絶するものがあります。

 

頑なな規定路線であった、原発推進のベクトルが、「壁に激突して大破した」という印象を受けるのですが、

 

原子力発電は、フランスとかでも中国でも、かなり依存度が高く、

 

人類人口爆発のエネルギーを支える観点でいうと、「避けて通れなかった道」だとも思います。

 

つまり、チェルノブイリでも、福島でも、「原発事故による放射能汚染」は、ある意味、避けて通れなかった道、払わざるを得ないコストだと、私は思っています。

 

ただし、「きっと大丈夫だろう」「これはもう決まっていることだ」と、根拠無く決め込んで、リスクヘッジを怠るような作法は、改善した方が良いと思います。

 

このやり方では、放射能汚染だけでなく、他の要因でも、同様に「壁に激突・大破」のシナリオを繰り返す「狂ったおもちゃ」になってしまうので、

 

何か懸念や今まで見えてなかったリスクが見えたときは、

 

「一旦立ち止まって」

 

「オレたちは今、一体何をしようとしているんだろう?」

 

という疑問提起や検証を、丁寧に行ったほうが良いと思います。

 

車の運転で、見通しの悪いT字路で、一時停止して左右確認するのと同じ事です。

 

それができないのは、「止まることの恐れ」「その恐れを覆い隠すための虚勢」

 

がある場合だと思うので、

 

私のような簡単に命をBETできる危険思考の持ち主でもわかることですが、

 

「恐れるべきときに、恐れるのは当たり前のこと」です。

 

逆に、「恐れるべきときに恐れない方が、死ぬほどやばい状態」です。

 

そういう態度は「強硬で」「勇ましい」「自信満々で頼りになる」という印象を受けやすいのかも知れませんが、

 

実際に事故を起こさない・生き残る生物は「ちゃんと恐れを知っている人」だし、

 

その「恐れを」「有効活用できる人」です。

 

ということで、次なる放射能汚染事故を起こさないためにも、

 

みんなの「恐怖」という機能周りの再確認をして欲しいなと思います。

 

東日本大震災でダメージを受けた地域も、復興しつつある地域があると思います。

 

その再起・再生は、素晴らしい業績であり、賞賛に値すると思います。

 

地元の人もすごいし、政治や行政も、がんばったのだと思います。すごい!

 

破壊が優位の世界で、生活や生業を守ることは大変ですけど、

 

大勢の色んな立場の人が力を合わせれば、きっと上手くいくと思っています。

 

ということをニートの私が言っても説得力が無いですけど、

 

素直に、地震災害から復興したら、嬉しいです。

鳥山明さんへ感謝の言葉

鳥山明さんが逝去されたとのニュースを見ました。

 

素晴らしい漫画作品を提供して頂いたことに読者として感謝し、心よりご冥福をお祈り致します。

 

私は1982年生まれなので、小学生・中学生~のティーンの頃、リアルタイムで少年ジャンプのドラゴンボールを読んでいました。

 

その年頃は、漫画とかゲームとか遊びたい盛りで、少年ジャンプも発行部数がたしか200万部くらいあり、コンテンツも充実していました。

 

ドラゴンボールはジャンプに載っていたので、そこにあることが当たり前のように、楽しく読んでいました。

 

孫悟空ベジータギャリック砲に対して、界王拳3倍のかめはめ波をぶつけるシーンなど、特に子供心に熱くなったのを覚えています。

 

あと、悟空が気弾で右胸を貫かれて、「次週へ続く」となった時は、本当にショックで、悟空が大丈夫か心配になっていました。

 

大人になって、改めてドラゴンボールを振り返ってみると、

 

その卓越した画力に裏打ちされた、ユニークで魅力的なキャラクターたちの活き活きとした表現に、率直に感動しました。

 

鳥山氏は、過去のメディアインタビューで、

 

ドラゴンボール連載時は、とにかく子供達をワクワクと楽しませることだけを考えて描いていました」

 

という趣旨のコメントをしていたと記憶していますが、

 

まさに有言実行だったんだな、と納得もしました。

 

そしてワクワクさせて頂き、ありがとうございましたと、伝えたいです。

 

他の作品としては、ドラゴンクエストもプレイしました。あと、クロノトリガーも。

 

鳥山氏のキャラクターデザインによって、ゲームの世界が、柔らかくて冒険心をくすぐるような華やかなものになっていて、こちらも愛着があります。

 

海外ファンの方も、鳥山氏の訃報を知り、悲しみを持っているようで、

 

それは、それほど多くの人に感動を与えてきた証左であろうと思います。

 

とても偉大な、そして親しみ深い漫画家であった鳥山明さんに、心よりご冥福をお祈りいたします。

 

ありがとうございました。